「ソモソモ兵役ニ就クモノハ、其一身ヲ以テ一国ノ人民ニ代リ、以テ国家保護ノ重任ヲ負フモノナレバ、其一国人民ニ於テモ亦宜シク其労ニ酬ユルノ義務ナクンバ有ルベカラズ」これは、「塩谷郡徴兵慰労義会規則」の緒言の一部である。(史料編Ⅲ・一八一頁)当時、我が国は独立国家として維持していくために、内政の安定、外には平和保持のため兵力の充実が最優先された。兵力の充実には多くの働き手が徴兵され、残された家は苦しい生活におわれていった。兵役についた家は労働力を失い、蓄えた資産も失い、結果は国家のために大きな損失となることをおそれた。兵役につくものは国民の代りに国を守る重任を負うものであり、国民もその労に報いなければならないと、このような考えで明治二〇年に徴兵慰労義会が設けられた。
この年の一二月太田村外一一か村戸長宇津三幸は徴兵慰労義会委員の選出について各村惣代に通知を出している。それによると村会議員中より義会委員一名を互選し、当選者は一二月二六日に戸長役場に出頭するようにとのことである。徴兵制により一家の働き盛りの男子が壮丁として三か年間家を留守にすることを考えると俸給面でみると、明治二六年(一八九三)当時、第一師団の歩兵一人の一年間の俸給は一四円余り、日給にするとわずか四銭に過ぎない。これに対して家で農作業をした場合平均で日給二〇銭くらいになる。これからみると、兵役にたずさわる人は、農作業を行う人の五分の一の収入しかならず家庭の貧困は当然予想されることになる。
徴兵慰労義会の活動が特に具体的に現れたのは日露戦争のころである。明治三八年上高根沢区長らは「徴兵慰労義会ニ関スル協議案」を作成している。それによると義会は戦死者には金一〇円、戦病死者には金五円の香典を贈ることになった。当時、戦病死者が多数で、葬儀が実施されないものが三〇余名もあった。それでこれまでの徴収金額では不足するとして三八年度は一戸四銭ずつ徴収することにした。上高根沢の戸数が二二八戸で九円一二銭を徴収して戦死者への弔意金として義会に納めた。
日露戦争後の明治四〇年には現役満期者で、慰労未済者に前々からの繰越金と四〇年度の義金とを合計し慰労するため一戸につき三銭を納めるよう村役場から区長あてに通知が出された。この際上高根沢には二二六戸で慰労義金六円七八銭の納付依頼が行われている(史料編Ⅲ・一七六頁)。
一戸につき三銭の納付金は当村の村民にとって楽なものではなかった。納められない者もあったようで明治四一年には六月に続いて八月にも役場から区長あてに納付についての督促状が届いている。村民にとって戦争への協力と自らの生活といったはざまにあって苦しい選択が迫られていた。