日露戦争後、社会は経済的不況におちいり、また明治四〇年(一九〇七)二月の足尾銅山での坑夫の大暴動にみられるように社会不安が高まった。政府は内務省を中心に町村財政の確立と生活習慣の改良促進政策といった地方社会の再編成に精力的に取り組んでいった。その徹底を図るため政府は、明治四一年(一九〇八)一〇月一三日に戊申詔書を発布し、国家再建のため国民に一致協力を要請した。
詔書は「庶政益々更張ヲ要ス。宣シク上下心ヲ一ニシ、忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ、惟レ信、惟レ義、醇厚ヲ成シ、華ヲ去リ実ニ就キ、荒怠相誡メ自彊息マザルベシ」と国民に勤倹と勤労をよびかけた。当時、世相は奢侈に流れ、青年たちの間には「立身出世」にあこがれ、国家への忠誠心を忘れるような個人主義的な風潮が生まれていた。戊申詔書のもつ意味は教育勅語とともに戦後社会をひきしめていくための基本的な綱領として位置づけられた。
栃木県にあっては、翌明治四二年一月七日町村長会議で戊申詔書に関する件が議題にのぼり、詔書の実行方法について、多種にわたるが「各地既設ノ青年会、奨学会、共同貯蓄組合、産業組合ヲ活用利導シテ勤倹淳朴ノ俗ヲ助長スル」ため大詔渙発を記念して町村で会則を作成し具体策を設け努力するように話し合われた。内容は目的を達成するため、(一)勤倹ノ風ヲ奨メ奢侈ノ弊ヲ矯メ共同貯蓄ヲ為ス事、(二)治産ノ道ヲ講ズル事、(三)少年子弟ヲ教化シテ風紀ノ改善ヲ図ル事、(四)会員和親輯睦同一致ノ美風ヲ涵良スル事などであった。
北高根沢村においても当時の世相は奢侈に流されていた。「風俗ハ浮華ナラズト雖、輓近交通ノ便、開カルニトモナヒ、奢侈ノ風ヲ助長シタルモノヽ如ク」とその傾向は強まっていった。特にその傾向はむしろ小作農家、あるいは兼業農家の間に殊に著しくみられた(明治四二年「上高根沢小学校日誌」)。小学校においては明治四三年(一九一〇)一〇月二〇日に戊申詔書を拝戴し教育を通し貯蓄の道を進めていた。