戊申詔書の精神を具現した運動が地方改良運動で内容は多様にわたっていた。主なねらいは日露戦争後の経済不安定の中での町村財政の立て直しと安定であり、これに関連して村々には納税組合が組織され、村人たちには勤倹貯蓄が強調された。この運動の主役は村の青年会であった。
青年会は日露戦争前は主として各部落が単位で結成され、江戸時代以来の若連中や若衆組の流れをひいて部落意識が強く、青年たちのなかには放縦に流れるものも少なくなかった。ところが日露戦争の勃発とともに各地の青年団体は軍用品の献納、出征軍人、遺家族の援護など戦争協力のため活躍したがこうした経験を踏まえて日露戦争後に内務省は青年団体を地方改良運動の有力な担い手とするべくその再編成に着手したのである(宇野俊一著『日本の歴史』第26巻「日清・日露」三六五頁)
北高根沢村の青年会の動きをみると、花岡青年会は日露戦争終結間もない明治三八年(一九〇五)八月一日に創設され、はじめは「春秋倶楽部」と称し、青年の農閑に集会をもち学術の研究をしていた。その後、四一年(一九〇八)三月より「花岡青年会」と改称し実業、文学、運動の三部に分けてそれぞれ次のような事業をした。実業部は試作地を設け会員を数組に分け競争試作をし、各組の収穫物を集め品評会を開催した。文学部は農閑を利用し研究会を開き知識の普及を計り、冬の農閑期には夜学会を開き算術、読書、作文の研究をし、ときどき老農を招き講話会を開いた。運動部は体育に意を注ぎ、休日に集まり撃剣、相撲等をし、ある時は地理、歴史の研究を目的に旅行をし、また運動会を開催し士気の鍛練を計った。会員は会費一か月に金二銭ずつを出し合い、試作地の利益と合わせて、当時四〇余円の基本金を有していた。青年会が戊申詔書を奉戴したのは明治四二年七月であった。
北高根沢村「台新田青年会」は亀梨、上柏崎在住者で一五歳以上の男子で組織され、教育勅語、戊申詔書の聖旨を奉戴し、躬行実践して国民の美風を涵養することを目的として組織された。この目的を達成するため雑誌の輪読をし、冬の農閑期には夜学会を開催した。費用は有志の寄付又は会員の会費で、特別会員は一回一〇銭、正会員は六銭であったが、別に基本金蓄積のため明治四四年六月より正会員は毎月五銭ずつ二年間拠金した(『郷土誌』北高根沢村)。
青年会の事業は補習教育を第一としたが、それは徴兵年齢期の青年の学力が低いことを知った軍部、文部省が補習教育の実施を重視したからである。北高根沢村では青年の知識を進め、風紀を改善する必要性を認め、明治四二年二月、助役見目辰三郎、村会議員菅又角一郎、農業指導員岩原孫作らが協議し、実業補習学校の規定に基づき校則を作り知事に申請、同年六月四日付で北高根沢尋常高等小学校に附設を認可され、一二月一日より開校した(『高根沢町郷土誌』)。地方改良運動として全国的に推進された青年会はやがて国家を重んじ、勤労・質素を旨とするなど当時の為政者が期待する青年像が形成されていった。