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土地を手放す農民

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 地租額がきまっている農民たちにとっては、米価の値下がりは地租の増税と同じことだった。より多くの米や農産物を売らなければならない農民の生活に「貨幣経済」はより深く入いりこんでいった。かつての入会地を官有地とされ、僅かではあっても金を払って薪や肥料・飼料用の生草を手に入れなければならなかったし、収穫をふやすために自給肥料の足りない分は〆粕や干鰯などの金肥も買わなければならなかった。多くの農民が地租やふえた戸数割、肥料代に困り肥料商や米穀商・金貸しに借金をした。借金の担保が田畑だったのはいうまでもない。
 当時、借金の利息は年一割五分が普通だったから、期限内に返せないと大変だった。表18は上阿久津戸長役場に残された「土地の質入・書入・売買」の戸長奥書控を整理したものである。一七年までは上、中阿久津村と宝積寺村の三か村という狭い地域ではあるが、一五年の売買の増加、一七年の売買、質・書入れの件数と一九町歩に近い売買面積の増加は注目すべき変化である。さらに五か村になったとはいえ一八年の僅か三か月間の売買・質書入れ件数と面積の増加のすさまじさは、当時の農民の悲鳴が聞こえてくるようである。特に宅地の売買は、宅地と耕地が一緒に売買されている場合が多いので一家離散や住み慣れた土地を離れる家族の姿を想像させるものである。
 県全体でも明治一六年から一九年の間、一年間の土地売買率は耕地が四・九%から六%、山林が五%から七・三パーセント、宅地等が一・六パーセントから二・九パーセントになっていた。また、同じく書入・質入の地所は全地所の一割前後に達し、一六年は一三・五パーセントになっていた(『栃木県史』通史編7近現代二・三四頁、四〇頁)。
 
表18 松方デフレ期の土地移動   上阿久津戸長役場
種別売買件数面積(反)質書入件数面積(反)
明治
14年
耕地
平林
宅地
6
 6
 2
10.1
 7.7
 0.6
 ――
 ――
 ――
――
 ――
 ――
15 耕地
平林
宅地
54
 18
 0
81.1
 61.7
 0
 ――
 ――
 ――
――
 ――
 ――
16 耕地
平林
宅地
7
 7
 2
40.6
 49.1
 5.7
 14
 4
 1
16.7
 4.5
 1.7
17 耕地
平林
宅地
44
 16
 3
117.6
 63.8
 5.7
 66
 6
 4
77.8
 35.3
 5.1
18
1~4月
耕地
平林
宅地
196
 75
 11
451.3
 314.8
 27.4
 119
 25
 16
273.8
 161.7
 25.5

注1 14~17年は上阿久津、中阿久津、宝積寺の3か村、18年は石末、大谷を加えた5か村分
 2 18年は1~4月の4か月分のみ
ミュージアム氏家蔵 永倉家文書「上阿久津戸長役場文書綴」より作成