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農村構造の変化

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 当時の村々の状況を具体的に知るのは難しいことだが、その一端が分かる史料をいくつか見てみよう。平田村の加藤幹実外一六名は明治二一年五月に開墾のため六町八反歩の「官有地払下げ願」を県に出して許可されたが、その願の中で次のように述べている。
 
   自分たちは今まで田畑が不足して困っておりましたが、それだけではなく願人中五名の者を除いて一二名の者は少しの所有地もなく大変難渋しております。それで今般一同協議のうえ官有秣場を払下げてもらい田畑に開墾して一つは教育費の資とし、一つは家産増殖の助けとしたいと思っております(後略)(史料編Ⅲ・七四三頁)。
 
 この史料に出てくる土地を持たない農民は、江戸時代の名主・豪農への従属的身分から自由になり、自立しようとしている農民たちであるが、このように近世からの「土地なし農民」を数多く抱え込んでいる集落は他の村々にも共通にあった。この農民たちが開墾や小作で独立の農業経営を営みたいという強い要求は、近代の地主制を成立させる社会的条件の一つでもあった。
 次の史料は、上高根沢村が元入会地の御料地編入に反対して県へ出した「上申書」に描き出された村の状況である。
 
   本村は明治八年以前は戸数一九〇戸余、人口は一、一〇〇人程だったのですが、本年(明治二〇年)現在戸数一七八戸、人口一、五〇〇余人です。戸が減って口が増えたのには原因があります。本村はやせ地で肥料を充分に施さないと収穫がありません。貧しい者は肥料の〆粕を買う金がなく、だんだん農業も衰えてしまうのです。でも他に仕事もなく農業一途より仕方ないのに、田は少なく人口の半数はいたずらに日を過ごしているありさまで、一二年前と較べると貧者は数倍になっています(中略)。
   今、官有原野を拝借して畑に開墾して貧者に貸そうと計画しているのですが、それを皇宮付属地に編入されては、村民一同ますます衰えて家計に苦しむ者が増えてしまいます。すでに明治八年以降廃戸して他に移転したり、妻子離散した例も少なくありません。どうかこの事情を御賢察くださって私どもの願を聞き入れて下さい。
 
 ここには地租改正、松方デフレが農村をどう変えていったかがよく述べられている。廃戸が一二戸余りあり、少し誇張があるにしても「貧者は数倍」、田の不足で「人口の半数はいたずらに日を過ごす」という半失業状態が描き出されている。少し後の明治二七年の塩谷郡統計書によると北高根沢村と阿久津村の専業農家の自小作別戸数は表19のようであった。この統計では自小作農を区別していないので、小作は所有耕地がない農家を現している。これで見ると両村には専業農家の三〇パーセントほどの「土地なし農民」がいたと思われる。さらに、土地所有規模が推定できる地租額でみると両村には納額一円未満(田なら一反歩以下)の住民が四〇〇人程おり、この「上申書」の記述もうなずけるものである。
 松方デフレ期に話を戻すと、この時期、栃木県は田畑売買価格が地価の七〇パーセントくらいにさがり、全国的にみても下落幅の大きい地域であった(丹羽邦男著「地租改正と農業構造の変化」『日本経済史大系5』所収)。そのため農民が安く手放した土地を買い集めた地主層は急速に成長した。小作地率は明治一五年の二五・四パーセントから二一年には三四パーセントとなり、戦前の日本農業を特徴づける寄生地主制が成立するのである。
 
表19 自小作別専業農家数(明治27年)
農 家 数自  作小  作
北高根沢村643449194
阿久津村331230101

注 この統計書の数値には誤りが多く農家数が現住戸数を超えているがおおよその状況を知るため専業のみを示した。熟田村の数字は混乱しているので除いた(「塩谷郡統計書」明治27年)。