明治から昭和戦前期の高根沢地域の社会的特色は、栃木県内で最も多く五〇町歩以上地主が集中している大地主地帯だったということである。大正一三年の調査(史料編Ⅲ・八三五頁)によれば県内に四七名いた五〇町歩以上地主のうち八名が町域に住んでいた。中柏崎の矢口長右衛門、太田の見目清、加藤正信、平田の鈴木長寿、上高根沢の阿久津徳重、宇津権右衛門、石末の加藤秋三郎、飯室の鈴木良一の八名である。その所有田畑の合計は塩谷、芳賀、那須三郡にまたがり一、〇二〇・四町歩、小作人戸数は一、五五一戸であった。また、大正期の貴族院の多額納税者議員互選人一五名(県下で納税額の多い順に決める)のうち五名が町域に住んでいた。
それは二三〇町歩の耕地を所有する県下最大の地主で銀行業と米穀商を営む見目清、一八二町歩を所有して県下第三位の地主で同じく銀行業と肥料商を営む加藤正信、一五七町歩を所有して県下第四位の地主で同じく銀行業と肥料商を営む鈴木良一、一二五町歩を所有して醬油醸造業を営む矢口長右衛門、「救命丸」で有名だが一一七町歩を所有し、県下第九位の地主でもある宇津権右衛門の五人である。さらにいえば県内に一〇〇町歩以上地主は一三人しかいなかったのに、そのうち五人が現在の高根沢町にいたのだから、この地域はまさに大地主の君臨する村だった。
彼らはその豊かな財力を十分に発揮して県内の実業界をリードし、さらに矢口、鈴木、見目は県会議員としても活躍し県政、村政にも大きな影響力を持っていた。彼らを含めた五〇町歩以上地主たちは江戸時代の名主階層や商人・地主、質地地主だった家が多く、近世ですでに相当規模の土地所有者であったが、このような大地主に成長したのは松方デフレ期の土地買い集めによってであった。