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実業家への転身

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 鈴木家はこの松方デフレ期に田畑一五町五反歩ほどを買い取ってこれまでの所有地とあわせ地主としての地位を確立したと見てよかろう。
 鈴木家は近世には名主、明治初期には当主だった初代鈴木良一が小区副区長をつとめ、一二年の第一回県会議員に矢口長右衛門とともに選ばれて、明治一五年まで二期在任している。また、近世末期から肥料商を営んでおり明治一三年には二等仲買商で売上高二、五〇〇円の大商人で、阿久津、熟田、北高根沢、荒川村などの肥料小売商に〆粕、干鰯、後には過リン酸石灰、硫安などを卸していた。日清戦争後の企業勃興期に二代目の鈴木良一は他に先んじて経済活動の手を広げたが、特に明治三二年の宝積寺駅開業の時には、いち早く駅東に倉庫をたて肥料店を開業して取引を拡大することに成功した。また、明治二九年四月には弟の今四郎を所長にして飯室の自宅敷地内に鈴木製糸所を設立して近隣村々の養蚕の発展を図った。そして製品の生糸は横浜の貿易商へ売っていた。明治三八年の「栃木県勧業年報」によると、一八馬力の蒸気機関一基を備え男子工員五名、女工一五名、計二〇名の工員が働いており、女工の賃金は一日一三時間労働で日給一五銭ほどで、年間の操業日数は二七〇日であった。当時の製糸工場としては平均的な労働条件であろう。工場は昭和一〇年ごろまで操業していたという。
 良一はさらに銀行経営にも進出して、明治三二年矢板銀行、喜連川銀行の設立に参加、翌三三年には宝積寺合資会社の設立に参加し、三九年の宝積寺銀行の発足にも北高根沢村の大地主たちと共に取締役として参加している。そのほか役員をしている銀行は佐久山銀行、小川銀行などである。こうした活発な経済活動のなかで土地の集中も進行した。明治三〇年には一年間で二二件の土地買取を行っており、田一〇町七反七畝余歩、畑六町七反八畝余歩、林野一四町三反余歩、合計三一町八反七畝余歩を手に入れている。これが明治二六年~三〇年の第二回目の集中の中心となっている。この時期には土地価格も上昇し、二六年の買取価格は田は地価の二倍強になっている。さらに三三年ごろからは地価の三倍で買う田も現れている。
 第三回目の集中期である明治四一~四六年の五年間を見ると、四一年には林野九町歩を買っているが、中心は四三、四四の二年で買取件数三二件、田一三町八反歩、畑六町七反七畝歩、林野七町九反七畝歩、合計二八町五反四畝歩の買取りである。価格は田一反歩六〇~一四〇円、畑一反歩四〇~六五円、山林一反歩一二~二五円で買い取っている。第四回目の集中期の大正二~六年は山林の買取りが大規模に行われ、三年には一か所で六町五反歩、六年にはやはり一か所三七町歩近い山林を三、〇〇〇円で買い取っている。
 このようにして鈴木家は幕末の地主・肥料商から出発して松方デフレ期に土地集積を行い大地主としての地位を築くと、そこから得られた利益を土地ばかりでなく地方銀行、製糸業に投資して事業規模を拡大し、県下有数の実業家へと成長したのである。これは日本の近代化の過程で地主資本が地方の産業資本、金融資本へと発展していくひとつの典型を示しているものといえよう。

図40 実業家として活躍した二代目鈴木良一(飯室 鈴木俊子提供)