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見目家の所得構成

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 大正一三年の五〇町歩以上地主調査で県下最大の地主だったのが太田の見目清(二代目、明治三七年家督相続・襲名)である。見目家は近世、太田村の名主の家で先代見目清は明治初めに同村戸長を勤め、明治一六年から二三年まで連続四期県会議員に当選している。また明治二〇年代から米穀商を営んでいたというが詳細は不明である。見目家には土地集中過程のわかる史料がなく、所得申告書(明治二七年度分、史料編Ⅲ・八四六頁)が明治二〇年代から三〇年代にかけて残されているので、それを整理したのが表26である。
 見目家の所得構成は明治二一年ですでに公債・株式の利子・配当が最大になっており、その比率は四九・六パーセントを占めている。そして二六年には六〇パーセント、三一年には七七パーセントと比率を高めている。所有株式の中心は日本鉄道で、二六年には県内最大の株主(四四四株)であり、上阿久津の若目田久庫、永倉半次郎をはじめ地域の有志らと東北線の石神~氏家への路線変更、宝積寺駅設置にも大きな役割を果たした。宝積寺駅設置運動の高まった明治二九年には株数を倍増し投資額も五万円に達するほどであった。
 次に土地について見ると、明治二六年の貸付地面積は田八〇町九反九畝歩、畑一八町二反二畝歩、山林二六町五反八畝歩、計一二五町七反九畝歩でそこから一、一五六円、(二四・七パーセント)の利益を得ている。三一年の貸付地面積は山林か三七町五反三畝ふえているだけで、田畑はほとんど変わっていないが、利益は小作料の増徴により二・四倍に増えて(二、七九一・六円、二七パーセント)いる。明治二六、二七年度分の利益は田畑共に地価の六パーセントとして計算されており、三一年は申告書が下書きなので記載してないが田が一二・三パーセント、畑が九パーセントで計算、山林は一反歩八銭の利益金で計算されている。貸付地の利益を地価一〇〇円につき何円と計算していることは、土地を利子、配当を生む資本として意識していることを示している。
 見目家では先代が明治二四年、下野銀行創立に参加し、取締役に就任したのに始まり二代目が明治三九年宝積寺銀行創立に参加、取締役を経て頭取に就任、大正元年小川銀行、同八年佐久山銀行でそれぞれ取締役に就任し、大正一〇年には下野実業銀行を設立して頭取となった。この間、大正二年に宝積寺米券倉庫株式会社を設立して取締役社長に就任している。大正一四年には県下の銀行を統合する下野中央銀行の設立に参加して取締役に就任し、同行が昭和五年の休業後昭和一〇年に中央商事に業種がえした時は頭取を務めていた。栃木県を代表する銀行家の一人であった。
 以上、三家を例に大地主の成立過程をみてきたが、この外の地主も松方デフレ期の土地集中を経て大地主に成長したり、土地所有規模を拡大して地主手作経営として発展した家が少なくない。そして、高根沢町域は明治中期には強固な地主制の支配する農村としてその近代への歩みを始めたのである。
 
表26 見目家所得明細
所得項目明治21年度明治26年度明治31年度
[1]公債・株式1272円 0銭2838円 0銭8159円66銭
  公債利子250.00 115.00 ---
  日本鉄道配当1022.00 2220.00 5715.25
   (2万2200円)(2万2200円)(不明)(5万4431円)
  日本郵船〃 ---280.00 318.75
   (3500円)(3500円) (6375円)
  下野銀行〃 ---223.00 845.62
   (2625円)(2625円)(7689.5円)
  北海道炭鉱鉄道〃 --- ---953.03
    (6711.5円)
  株取引所(500円)〃 --- ---125.00
[2]銀行より報酬360.00 45.00 ---
[3]非営業貸金利息80.00 418.20 202.00
[4]貸付地の利益853円0銭 1156円0銭 2791円64銭
   田763.00 970.00 2489.99
    (反別)  -- (809反9畝)(808反5畝)
   畑(田と一緒)85.00 170.10
    (反別)  --(182反2畝) (187反4畝)
   山  林45.00 51.00 61.29
    (反別)  --(265反8畝)(265反8畝)
[5]貸家(5戸.宇都宮)45.00 50.00 28.00
[6]宅地(3畝17歩) --- ---42.27
[7]自作農業 --- --- (不明)
[8]所得金計2565.00 4682.00 1万0951.30

注 公債、株式の( )内は払込済金額    太田 見目清三家文書より作成