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農事改良の先駆け

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 上高根沢の五〇町歩以上地主の一人、阿久津徳重家は近世の名主で代々半之助を襲名し、向戸を屋号としていたが、地租改正の時にはすでに田・三二町五反歩、畑・九町三反歩、平林、原野など五七町六反歩、計九九町四反歩を所有する大地主であった。
 徳重は明治四年生まれ、上高根沢小学校へ四年まで通い、高等小学の課程は茨城県太田町小学校(現常陸太田市)で学び、明治一九年に卒業した。ついで水戸市の輔仁学舎で二年半ほど和漢学と数学を学んだが、「実学」を学ぼうとする意思が強く、明治二一年五月東京農林学校(駒場農学校の後身、後の東大農学部)へ入学して最新の「西洋農学」を学んだ。二三年一二月、家事の都合で中途退学し帰郷したが、新しい農学を学んだ成果はすぐに上高根沢の農業に生かされた。
 当時、阿久津家は農業の傍ら酒造業と質屋を営んでいたが、二〇歳の理想に燃える青年、徳重は主力を農業においた。二四年一月には養蚕を取り入れるため桑畑の造成を始め、桑苗一万二〇〇〇本を植え付け、自分の家の小作人たちにも二、〇〇〇本を無料で配った。さらに上高根沢の農家にも養蚕と桑苗植付けをすすめた。養蚕は後で述べるが、大谷では二〇年ごろから桑畑が作られはじめており、上高根沢の赤羽重矩は二三年を「我が家養蚕起業の紀元」と「養蚕日誌」に記しているので、町域では明治二〇年代から養蚕への取り組みが始まったのであろう。
 翌二五年、徳重は農家の副業として養鶏が有利だろうと考え、産卵数の多い西洋種の鶏を数百羽飼って実績を他の農家に見せ、普及を試みた。二六年からは桃と除虫菊の栽培実験を数年行ったが、高根沢の土に合わずこれは中止している。
 明治二七年、結城町の斉藤慎吾から緑肥として「レンゲ」が非常に有効なことを教わり、さっそく種子を手に入れて自分の田五町歩に蒔いた。この田の収穫が予想外に多かったので、翌年は小作人たちへ種子二石を無料で配り田へ蒔かせた。これがこの地域でのレンゲ普及の始まりだといわれている。また、高根沢地域ではまだ一部でしか栽培されていなかった「葉たばこ」が現金収入を得るのに良いと知った徳重は、二九年に自分で研究して試作に取り組み、同年一一月の塩谷郡農林会の農産物品評会に出品し、二等賞となった。自信をもった彼は農家の副業として村民や小作人に勧め、栽培法も指導した。
 徳重は米のほかに現金収入を得やすい農畜産物をいろいろ生産する、多角的な農業経営の村を理想として心に描いていたのであろう。
 さらに、拝借した御料地の植林や平地林の雑木に頼っているだけで、不足していた薪炭材問題を解決しようとして、成長が早く短伐材として知られていた北米原産のニセアカシアの植林を計画した。明治三一年から始め、大正の終わりごろには、自分の山林や払下げになった旧御料地の林に数万本を植えたという。このニセアカシアの林は今も県道宇都宮―向田線の本田技研入口付近に残っている。春の花の時期には道路をニセアカシアの花の天蓋が覆い、甘い香りがいっぱいに薫って、農民の暮らしの豊かさを夢見た徳重の心が伝わってくるようである。

図42 農事改良の先駆者阿久津徳重・のち県農会長に就任(上高根沢 阿久津昌彦提供)