明治三〇年、阿久津徳重は発足して間もない塩谷郡農林会の特別会員に推薦された。新しい農業に取り組む農村指導者として広く認められたからであった。阿久津家には江戸時代から同家の農作業を勤める従属的な地位の農民たちがいた。明治になって自立したこれらの農民の多くは小作人として、阿久津家との堅い絆をたもっていた。徳重はこの人々が自立して農業経営を営めるようになることが、村の発展と村民生活の安定につながると考えた。桑苗やレンゲ種子の無料配付、煙草栽培の奨励は現金収入を得やすい商品作物を見つけて、経営の自立を助けることを狙ったものだった。そして、明治三二年二月に一六名の小作人を組合員として結成した向戸共同農事奨励組合は、小作経営の自立を助けるための本県初の小作の保護団体だった。この組合の規約(史料編Ⅲ・八一五頁)によると、組合は次のように運営された。
一、目的 農事の改良・発達と組合員が天災の被害を受けたときの救助
二、組合の資金 阿久津徳重が水田三反五畝歩を無料で提供し、組合員が共同で耕作しその収穫米を販売して資金をつくる、但し毎年必要な肥料は徳重が提供する
三、資金の管理 販売代金は組合長阿久津徳重に預入れ、組合長は年一割五分の利子をつけて毎年一二月二〇日に清算、報告する
四、資金分配は組合員の決議によって行う
五、組合の存続期間は三〇年とする(昭和四年まで存続)
徳重の計画では三〇年間に各組合員は農業経営として自立し、相当の資金も蓄えられるはずであった。しかし、明治三五年の九月に県下一帯を襲った激しい暴風雨被害のため組合資金だけでは足りず、徳重は肥料購入資金として一人当たり六円五〇銭、計一〇四円を提供、三八年には凶作のため再び一人当たり七円、計一一二円を提供した。このように組合を運営し、小作経営の自立を図るのは困難な事業であったが、組合は存続期間満了の昭和四年まで続いた。この組合が小作経営の自立にどの程度役立ったかは、昭和恐慌で阿久津家が下野産業銀行(頭取・阿久津徳重)の破綻の影響をうけ土地を失うので、不明である。