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最初の耕地整理

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 当時、徳重の農業の良き師であったのが、寺渡戸の老農岩原孫作であった。孫作は嘉永三年(一八五〇)の生まれだから徳重より二一歳年上だった。喜連川の私塾で漢籍や和算を学んでいたが、父の病いのため帰宅し、一三歳から家の中心となって農業に励んでいた。勤勉で聡明な孫作は三〇歳になった明治一三年、家の周りの原野四町歩の開墾を決心し、一四年かかって新田二町歩、新畑一町一反歩の開墾に成功した。二八年、農事改良の必要を感じて、発足したばかりの県農事試験場を視察してから種籾の塩水選、改良苗代を取り入れ、二九年からは特に堆肥の研究に励み、三一年には厩肥はもちろん、家庭排水の一滴をも無駄にしない合理的な堆肥製造法と堆肥舎の建設に成功した。その後、耕作と施肥の効率化を研究して、農事試験場の技師らの指導を受けながら、自分の田畑三町七反歩の耕地整理を独力で行い、三五年に完成した。暗渠排水線が七〇〇間にも及ぶ工事だった。県農会は先進的農業の見学地として岩原農場を指定したので、明治後期から大正初期にかけて岩原の所へは多くの見学者があったという。
 明治三六年ごろから農業経営の改善を研究していた阿久津徳重は、県農事試験場が行う「経済農場」の試験を取り入れ、三七年四月に小作による農業経営を農場経営へ転換することにした。そして、孫作からまず堆肥製造法と堆肥舍の作り方を学び、農場に取り入れた。さらに、耕地整理が農場経営に有効なことを知り、さっそく塚原の山林原野の開墾と開田にとりかかった。七、五〇〇円の費用をかけて自作地一八町余歩(農場用地の一部)小作地八町八反余歩、計二六町九反一畝九歩の二毛作田が造成されたのは三七年七月だった。この耕地整理の成果について徳重は塩谷郡長におよそ次のような報告をおくった。
 
  一、施行後、灌漑の便を得て排水が良好となったので二毛作田が九割五分と同地区内の三割三分より六割二分ふえた
  一、車馬の利用が多くなったので肥料、収穫物の運搬、耕耘が便利になった
  一、肥料の効率が良くなった
  一、反収が二石五斗から二石八斗九合へと三斗九合増加した
  一、田の売買価格が一反に付き四二円から九五円へと五三円高くなった(史料編Ⅲ・七九一頁参照)
 
 この耕地整理の成功に対して、県農会は三六〇円の補助金を交付し、郡農会は木杯一組を賞品として贈った。
 岩原孫作と阿久津徳重の耕地整理の成功は他の地主たちの農事改良の意欲を刺激し、明治三八年には上高根沢(一九町三反余歩)、三九年には大谷(一五町七反余歩)、柿木沢(四六町歩)と耕地整理が次々に実施されるようになり、町域の米産地としての基盤整備が始まった。