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小作契約の移り変わり

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 次に普通小作の契約内容を見ていこう。例の三は明治一二年の小作証書(史料編Ⅲ・八一〇頁)で明治期としては早いものである。契約内容は田、二斗四升蒔(約三反歩)で小作米一石二斗、内三斗は諸税の分、残り九斗を作徳として一一月二〇日までに納付する、遅れた場合は連署の証人が納めることになっている。この証書には「伍長」も署名していて江戸時代の五人組が連署する形式がとられており、未納の督促を戸長に頼んでいるのも江戸時代的な解決法である。
 例の四は九人の小作人が連名で出した小作証書(上高根沢 高瀬晴基家文書)だが、契約内容を項目に分けてみると、次のようになる。
 
 (ア)期 間 明治二六年から二八年までの三か年間
 (イ)小作料 田二町九反七畝二〇歩 平均反当小作料二斗六升
        畑九反二五歩     平均反当小作金一円一四銭
 (ウ)小作人の義務 ・用悪水堰普請の人夫、杭木、芝塊その他必要品の提供
        ・耕地を念入りに丹精すること
        ・小作米は一二月二日、小作金は一二月一日までに納める
        ・小作米・小作金延滞の時は連署の証人が納める
 (エ)土地引上げ 小作米・小作金延滞、耕地の手入れが粗末な場合
 
 ここでは小作人が義務として行うことを決めたうえで、地主がどういう場合に土地を引上げられるかを決めて、地主の権利を明確にしている。
 次の例五(図44参照)は明治三〇年代、民法施行後の小作証書である。阿久津村で使用されたものであるが(ミュージアム氏家蔵 永倉家文書)全文を読み下しで紹介しておこう。
 
       田地小作契約書
    別紙記載の通り御所有地を小作する為め左の通り契約仕り侯(別紙省略)
  第一 小作期間は明治 年 月より明治 年 月まて定む
     但し収穫後五カ月間内は地主の都合により解約する事を得
  第二 土地の用い方は米作に限る
  第三 各大字産上等米を以て小作米の品質と定め十分に調整し毎年拾壱月弐拾日限り地主の住所に支払う事
  第四 天災地変に因り収穫を減ずるも小作米の減額を請求し又は契約の解除をなすことを得ず
  第五 租税其他公課以外の保存費は小作人これを負担す
  第六 地主が解約する場合には統て申込と同時に小作契約は終了するものとす
  第七 保証人は小作人と連帯して履行の責に任すべき事を特に約諾す
  右小作契約書後日の証のため仍て件の如し
               郡  村大字
  明治 年 月          小作人
                  保証人
  塩谷郡阿久津村大字上阿久津
               殿
 
 この小作証書は地主の権利を極めて明確に規定しており、同時に小作人の法的な無権利状態をこれまた極めて明確に表現している典型的なものである。第一項の但書と第六項は地主の一方的な契約解除権を述べたもので、同じ時期の太田・見目家の小作証書(史料編Ⅲ・八一一頁)の一項但書にも「但貴殿の御都合により年期中といえども返地仕るべき契約」とあり、六項では「前記小作料一か年たりとも期日に支払わざる時は地主に於て小作権消滅を請求する事を得」とあるので、このように地主の権利をはっきり書くことが当然だったのであろう。第四項は「天災地変」による減収の場合でも減額が地主の「恩恵」としてしかあり得ないことを示したものである。また、第三項の「大字産上等米」を小作米とすることは、見目家の場合は「乾燥を良くし上米を以て送納」する契約となっていて、前に述べた米市場での競争の激化を反映したものであろう。
 次に小作料の標準的なものを見ると、明治三三年の塩谷郡農会調査(『栃木県史』史料編近現代四・三〇二頁)では郡平均反当り、田・六斗八升、畑・二円五〇銭、北高根沢村は田・七斗、畑・一円八〇銭であった。
 小作料の改定された例を見てみよう。この史料では小作畑は三町八反歩程、小作人一六名である(「修正小作金台帳」石末 加藤智久家文書)。二度改定されたがそれは次のようだった。
 
  三六年 反当平均一円八六銭 最低一円四〇銭 最高二円五〇銭 平均値上率
  三七年  〃  二円三四銭 〃 一円五〇銭 〃 二円八〇選 二五・八%
  四一年  〃  三円四三銭 〃 二円七五銭 〃 四円〇〇銭 四六・六%
 
 小作田は四町二反歩ほどで小作人一二名、三七年の平均反当小作米は玄米五斗二升、四二年にそのうち三筆・三反一畝ほどの小作米が増額され反当一石二斗になっている。
 この項では小作契約の移り変わりをみてきたが、これらの契約項目が文字どおり実行されたかどうかは疑わしい。しかし、これに署名・押印する小作人と保証人は否応なしに自分たちの無権利状態を自覚したに違いない。また、農村の貧困が社会問題として浮かび上がってきたとき、この小作人の無権利状態が貧困の一因として考えられ、いわゆる「農村問題」として論議されたのも当然であった。

図44 永倉家小作証書(氏家町 ミュージアム氏家蔵 永倉家文書)