町域の村々には小作、自小作農家がかなり高い比率で存在していた。明治期は信用できる統計がないのだが、明治四一年の塩谷郡統計書によると自作、小作の農家数は表27のようである。自小作の分類がある大正四年の北高根沢村でみると、農家戸数九二四、内小作三一八(三四・四パーセント)、自小作三二九(三五・六パーセント)、自作二七七(三〇パーセント)、また、田を持たない農家が四五七戸、畑を持たない農家が五七三戸だった(史料編Ⅲ・二〇〇頁)。従って、この表では自小作の大部分は自作に含まれていると考えてよかろう。阿久津村の場合は土地なし農家の数は少ないが、北高根沢村と熟田村の場合は土地なし農家が全農家の半数近くあったとみられる。この農家の暮らしはかなり貧しかったようである。明治四四年に書かれた北高根沢村の「郷土誌」によると農家の多くは小農で、農業では生活できず「労働して得るところの賃金」により生活する「労働者的農民」であると指摘し、その多くは小作人であると述べている。聞き取りによっても小作農家は土間と囲炉裏のある上がり口の板の間、それにもう一つ板の間がある程度で、畳もなく藁で編んだ筵やござがあれば上等だったという。着る物も着替えは少なく、特に子供はいつも同じ物を着ているようだったし、欲しいものを買ってもらえるのは煙草を専売局へ納めた後ぐらいだったという。作った米の五五~六〇パーセントほどは小作料だから、残りの米を売って肥料代や種代、農具の買い換えや修理代、生活費を賄わなければならなかった。実際、米を作っても米が食えないというのは当然だった。子供たちは尋常小学校を終えれば地主や大きい自作農家へ農雇人や家事手伝いとして年期奉公に出されたり、宇都宮や氏家、さらには東京や横浜へ働きにいった。明治四一年の出寄留をみると、町域三か村で他府県へ一二六名、県内他郡市へ一九五名、郡内他町村へ一三八名の計四五九名おり、この人々が何らかの理由で村を出ていた。大人たちは馬を持っていれば農閑期は荷物運びをし(駄賃稼ぎ)、そうでないときは男女とも道路普請や堤防工事などの川普請の作業員として休みなく働かねばならなかった。
表27 町域三か村の自作、小作別農家数(明治41年)
| 自 作 | 小 作(割合) | 計 | 現住戸数 |
阿 久 津 | 458 | 100(18%) | 558 | (640) |
北高根沢 | 479 | 383(44%) | 862 | (909) |
熟 田 | 218 | 303(58%) | 521 | (474) |
注 熟田村は誤りと思われるがそのままとした。「塩谷郡統計書」明治41年より作成