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官有地利用への取り組み

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 地租改正で入会地を官有地にされた村々の生活は、どう変わったのだろうか。明治六年に上の原、台の原、金井原など広い入会地を官有地にされた上高根沢村を中心にみてみよう。入会地が官有地にされた初めのころは、官有地の管理はゆるやかで、秣・肥料用の草や柴木の刈り取りにも不自由はしなかった。しかし、明治一〇年代に入って、内務省による林野行政がすすめられるようになると、一一年には官林下草刈取りの保護取締り、部分木仕付条例、伐木規則などが次々に決められた。一三年には本県の官有林野の保護・管理は県に委託され、一五年には官林巡視人が置かれるなど官有林野の管理・経営がしだいに整ってきた。
 また、明治一〇年代は、各地で入会権のある官有地が特定の個人に払い下げられて、権利を奪われた農民の騒擾がしばしば起きていた。特に明治一三年の、群馬県群馬郡で八〇余か村の三万人を超す農民が鎌、鍬、鉈、竹槍で武装して旧入会山で実力伐採を強行した事件は、関東地方の農村に大きな波紋を呼び起こしていた。
 上高根沢村で官有地利用の願が最初に出されたのは明治一八年の「部分木植付願」(史料編Ⅲ・七一七頁)である。上の原と台の原の官有秣場一五四町余歩のうち九六町一反三畝七歩を借りて雑木約九万六〇〇〇本を植え、成木になったら伐採して利益を官が二、民が八の割合で配分するというものである。願人は磯秀五郎外一六一人であるが、当時の戸数は一七八戸だったから村の農家全部が出願したのだろう。しかしこの願は県から却下された。
 翌一九年には同じ場所に「生草払下げ願」を出し拝借料一か年二三円五五銭六厘で五か年間拝借を許可されている。さらに二〇年七月には阿久津金次郎を願人としてこの土地を畑に開墾するための「官有地拝借願」を出した。この開墾願の許可を得るため村人は協議して生草払下許可の「返納頤」を出して運動したが成功しなかった。
 このころ憲法制定準備をすすめていた政府は、天皇主権の経済的基礎を作ることを考えて皇室財産の創出をはかったが、その一環として官有の山林原野を皇宮御料地に編入することにした。本県では明治二〇年に上都賀・芳賀・塩谷・那須の諸郡を中心に官有地の御料地編入の通知があったが、上の原・台の原はこのとき「皇宮地付属地」すなわち御料地に編入されることになった。
 御料地への編入に際して上高根沢村には「入会」などについての問合わせがあった。村では協議のすえ、前に引用した「原野地拝借理由上申書」(史料編Ⅲ・七二三頁)を県へ提出して、村の窮状を訴え御料地編入の中止を願ったが(二五九頁参照)、このときの願は聞き届けられず、村ではこののち「官有地より湧出する利益」から元上高根沢村人民が平等に利益を得るため「契約書」(史料編Ⅲ・七二五頁)を作り、要約すると次のように申し合わせている。
 
  契約の事由と注意
    この官有地は古来から上高根沢村人民一同が利用し、一村人民一同の利益を図ってきたものだから、各自の私益のための払下げ・拝借等をしないように、官有地について契約する時は必ず全区内人民一同と協議し、上高根沢の便益を図るものとする
  一 区内官有地より湧出する利益を上高根沢の基本財産とし公共の経費にあてるものとする
  二 各自隠れて私益のため払下げ・拝借の出願をしないこと
  三 台の原・上の原は皇宮地へ編入の見込みで払下げや拝借願は聞届けられないようだが、編入に反対の意見書もだしてあるので、払下げ・拝借に充分尽力すること
    但し払下げ・拝借願は区内全官有地に行うこと
  四 一組一名の惣代者を選び、その互選で出願惣代を選ぶこと
  五 払下げ・拝借が許可になったら区内人民へ平等に配分し、代金・経費を割当て徴収する
  六 区内人民外の者が払下げ・拝借出願するとき地元保証人に決してならないこと
  七 区内官有地の内、田畑に開墾の見込みがあり、開墾したい者は区内人民と協議し、許諾をえてから開墾すること
 
 この契約は上高根沢村民が入会地をどのように考えていたかをよく教えてくれる。彼らは入会地の利益を村の「基本財産」とし「公共の経費」という村の自治のための費用にあてることを考えている。また「払下げ・拝借」が成功したときは村民に平等に配分し、経費も平等に負担するということも決めている。こうした「公共」「平等」という原則は入会地利用の慣行からきていると考えてよかろう。入会地は官有地に編入されても村民にとっては「古来」からの慣行に従って利用すべき「公共」の土地だったのである。

図45 官有地利用についての上高根沢住民契約書(上高根沢区有文書)