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官有地利用の広がりと開墾

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 上高根沢村のその外の官有地では字原の内、簗瀬、金井原で雑木の払下げをうけて、明治二六年には開墾した払下地六町五反二畝一五歩の地価と地租の査定を求める願を出していた。
 平田村では開墾が成功したら払下げを受ける予約をして、明治二一年六月に旧入会地の官有地を無料で拝借した。この開墾計画によると二二年二町四反五畝余、二三年二町四反余、二四年二町六反六畝余、二五年一町七反六畝余、計九町二反五畝二〇歩を開墾することになっていた(平田 鈴木順家文書)。結果の分かる史料はないが開墾・払下げは実現したと思われる。宝積寺、石末両村は、史料は残っていないが、入会地を証明することが出来て現在の東、西町・宝石台、光陽台地域を村民に分配したようである。
 次に明治二〇年代ごろまでの開墾のようすを見てみよう。地租改正までに町域の村々で畑の田への転換や開墾地を田へ造成する動きがあり、田の面積が大幅に増えたことは述べたが、その後も耕地を増やす動きに変わりはなかった。明治一九年五月には上高根沢村で荒地を起こし返したので地租を納めたいという願が出されている。それによると明治一四年から一八年までの五か年期で荒地三町七反八畝余歩から田六反一畝七歩、畑一反八畝一一歩を起こし返している。翌二〇年には四四名の農民が田七反六畝一五歩、畑一町二反三畝二〇歩、宅地一町七反二畝七歩を開墾したとして地租を納める願を出している。明治二二年には太田村の見目清、阿久津半六が山林七反一畝歩を畑に開墾する届を出して許可されているが、二二年から二五年まで四か年の鍬下年期(無税期間)も認められている。
 明治二八年には大字栗ヶ島で前に述べたように共有の山林・原野一一町八反余歩を共有地主三三名に配分して田畑に開墾している。
 明治三〇年代に入ると個人が所有する山林・原野の開墾が主流となってきて、町域各地で開墾が行われている。年月は不明だが、石末の野沢辰之助は荒田一反七畝二九歩、荒畑一反八畝二一歩の起し返しと、平林原野三町四反九畝二八歩の開墾を計画して、資金の貸下げを願い出ているし(史料編Ⅲ・六〇六頁)、明治四〇年の東高谷坪の「田開墾取調帳」(史料編Ⅲ・六〇七頁)によると、坪内の地主一五人が六町九反九畝二〇歩、坪外の地主七人が一六町一反七畝二九歩の開墾を行ったことが記録されている。

図46 開墾風景(渡辺清「百姓絵日記」明治40年3月17日 渡辺弘蔵 写真提供 ミュージアム氏家)