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農会の成立

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 農事講習に活躍していた佐藤代吉は明治二五年に「農事教育及農事試験に関する建議書」を提出して、農学校と農事試験場及農事分析所の設置を建言した。県は全国的な農業施設設立のながれもあって、これを受け入れ、明治二八年に栃木県簡易農学校(当初二年制で宇都宮市姿川村鶴田、のち那須郡野崎村へ移り三年制となり、明治三九年宇都宮市今泉へ移る。宇都宮農業高校、現宇都宮白楊高校の前身)と農事試験場を設立した。ここに栃木県は農業教育と農業技術研究の中心施設を持つことになり、本県の気候や地質にあった農事研究と農業従事者の育成にあたれるようになった。農事改良の推進をめざす全国的な組織としては、明治一四年三月の第二回内国勧業博覧会の時に開催された「全国農談会」をきっかけにつくられた「大日本農会」があった。明治二〇年代に入ると、農事改良に止まらず農会や産業組合をつくって農民の利益と地位向上を図ろうとする農政的活動への要求も強くなってきた。このような動きを受けて前田正名が明治二六年に大日本農会の幹事長になると、前田らは翌年「全国農事大会」を招集し、地方と全国を結ぶ系統農会の結成を決議した。
 こうしたなかで、県内でも「農会」を結成しようとする気運が広がり、二四年から二六年にかけて河内、那須、芳賀、下都賀の諸町村で「農会」が組織された(『栃木県史』通史編7近現代二・二九三頁)。明治二五年四月には河内郡で佐藤の農事講習参加者を中心に、農事改良をリードする団体として有志一〇〇余名により「河内農会」が組織された。河内農会は各村に農会を組織しようとして村農会の規約草案をくばった。その第一一条にある組合員の「確守事項」はその後の農会の農民への指導のさきがけともいえるもので、苗代へ種を蒔く時期、田植えの時期、水の管理、刈取りの時期などは河内農会の指導に従えという指示から、田の秋打ち、売出し米の精選に至るまで細かく規制しようとしていた(『南河内町史』通史編近現代・二五五頁)。
 明治二八年(一八九五)一二月に県は「農林会設置準則」を公布して全県的な組織つくりを始めた。県、郡、町村に設置された農林会の会務の大要は次のようであった。
 
  (ア)農林業有功者の表彰
  (イ)共同販売、共同購入、貯蓄
  (ウ)試作
  (エ)森林の蕃殖と保護
  (オ)蚕桑の改良発達
  (カ)耕種栽培法の改良
  (キ)病虫害の予防駆除
  (ク)統計・調査
  (ケ)談話会、品評会、共進会、種苗交換会の開催
  (コ)官庁への意見・建議と諮問への応答
 
 県農林会は明治三〇年二月に発足したが、北高根沢村で農林会がつくられたのは明治三一年二月であった。会長・赤羽宥松、副会長・矢野薫一で発足したが、何か事情があったようで二人とも辞任して、村長の渡辺甲子が会長に就任した。渡辺は県、郡農林会の評議員にもなっている。阿久津村の会長には阿久津勝太郎が就任し、県の会員にもなった。渡辺が出席した明治三一年の県農林会には次のような諮問があった。
 
  (一)自家用蚕種検査の必要なるやいかん
  (二)動植物病虫害予防駆除組合組織の可否
  (三)蚕業改良奨励の方法いかん
  (四)肥料共同購入組合の可否
  (五)獣医養成の必要の可否
  (六)勧業通信員を設置するの可否
  (七)蚕種検査所施設の必要いかん
 
 農事改良にとってどのような問題があったかを知るのに便利な諮問である。ようやく盛んになってきた養蚕では自家用蚕種について何の制約もないので粗製乱造の弊害が生じていること、肥料については成分をごまかした粗悪品が高値で販売されていることなどが指摘されている。(五)、(六)は可決され、(三)では当時一名だった蚕業教師を増員することなどが討議されていた。
 この農林会は農会法の成立によって明治三三年四月から栃木県農会と名称を変えたが、渡辺甲子は引き続き評議員を務め、特別会員には見目清、会員には渡辺、阿久津勝太郎がなっていた。

図50 赤羽宥松の農林会創立費の寄付願(栗ヶ島 渡辺章一家蔵)