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塩水選と害虫駆除

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 米麦作の改良は農事改良の中心となることであったが、なかでも米作の改良は急がれていた。江戸時代は米が年貢だったので領主による品質の検査があったが、明治になって何の検査もなくなると、多くの農民は品質の良否は問題にせず多収穫米の生産に走っていた。また、米市場でも上質米と粗米との価格差は余り大きくなく、産米改良への意欲も刺激されなかった。特に松方デフレ期は農村が荒廃し、米の品質の低下がみられたという。しかし、しだいに鉄道が発達して各地の米が東京、大阪の市場へ集まって来るようになると、米産地間の競争も激しくなってきた。
 栃木県の米は、野州米として東京・横浜方面と製糸業の盛んな群馬方面へ多く移出していたが、明治二〇年の上野―仙台間、二六年の上野―直江津間の鉄道開通によって東京方面では宮城、山形、新潟の米との競争が激しくなり、高崎・前橋方面では新潟米に市場を奪われるという状況が生まれていた。そのため米の販売者である地主や米穀商は産米改良に強い関心を持つようになった。
 産米改良について農会が最も強力に指導したのが、種籾を塩水に浸して実入りのよい籾を選びだす塩水選と苗の管理、病虫害の予防と駆除によいという短冊形の苗代で苗をつくることだった。明治三四年(一九〇一)には「水稲選種規約準則」が郡農会で決定され、三月二五日郡内各町村一斉に塩水選を行ったが、郡農会から町田巡回教師、理事たちが手分けして村々を巡回、監督をした。また、すでに明治二九年に制定されていた「害虫駆除予防法」にそって苗代の害虫駆除を実施するため各町村に誘蛾灯一個、補虫網一個をくばり、担当理事をきめて害虫駆除を監督した。北高根沢・阿久津には理事高橋忠太郎、見目東曹がきて監督したが、三四年度の成績は表28のようだった(『農事試験成蹟』塩谷郡農会・明治三五年六月)。
 この殺虫、卵採取の成績は三か村計で誘蛾灯は郡の四三パーセント、補虫網は四六パーセント、産卵採取は六〇パーセントで、北高根沢村が郡内最高の成績だった。また、八月に県農会が主催した害虫駆除予防講習会に北高根沢からは見目東曹、村上誠一郎、阿久津から増渕安次が参加した。そこでも害虫駆除のためには短冊苗代の実施が必要不可欠なことや畦畔、河・用水路の土手の藪の焼払いが大切なことが強調された。
 
表28 町域3か村の害虫駆除成績(明治34年度)
誘蛾灯殺虫数補虫網殺虫数産卵採取数
北高根沢村165,70056,0006,520
阿久津 村1,300850600
熟 田 村12,464  --615

「農事試験成績」塩谷郡農会     明治34年より作成