北高根沢村の米作の概況がわかるのは「明治二一年塩谷郡太田村外拾一か村米作概況」と「米穀作付表及収穫石高概算表」(史料編Ⅲ・六〇〇頁)が最初である。それによるとこの年、苗は順調に育ったが田植え後の天候不順と台風の影響で平年より減収の見込みだったが、収穫は平年並みであった。作付反別、収穫高、反収は表35のようであった。
作付けは中稲、晩稲が中心で反収も晩稲、中稲の順に高く早稲は低い。平均反収が七斗程度であるから地租改正の時のこの一一か村の平均反収七斗六升三合より六升下がっている。次に明治二三年の阿久津村の稲作調(史料編Ⅲ・六〇二頁)を見ると、播種量は一反当たり六升、田植えは四月二五~二八日、肥料は〆粕が中心で除草は二回する。一反歩の収量は上田で早稲が玄米一石五斗、中稲・晩稲一石六斗、中田は一石五斗、下田が七斗五升で北高根沢村よりかなり高い。このような状況を前提にして農事記録を見てみよう。
農事記録の比較的はやいものは平田の鈴木家の明治二八、二九年の「種籾棚卸控帳」である。これには収穫高の記録がなく短冊苗代や肥料の効果は不明だが、それによると
苗代 四月二五日短冊苗代に作り、田一反歩当たり一〇歩の割合、計一反一畝歩
種籾一石九斗九升(金巾・藤早稲・大黒・関取等、一一品種)
一〇歩当たり肥料 人糞三斗、過燐酸石灰一升五合、種粕三升
田植え 六月五日から一二日まで
本田施肥 〆粕と菜種の搾り粕(種粕)
二九年度に変わった点 新品種の明治早稲と中稲の下総坊の播種が増え関取、大黒はつくらず六品種位にまとまっていく傾向、肥料は変わらない。
苗代を本田一反当たり一〇歩にするのは後の農会の標準と同じ。一〇歩当たり六升の種籾は農会標準の一・五倍から二倍にあたるが、それは当時の高根沢地域では普通の量であった。苗代肥料の人糞は農事試験場が「改良苗代手引・試験場警告第壱号」(伏久 塚原征文家蔵)で過燐酸石灰・藁灰と一緒に使うと最高とし、不足の場合は他に使う量を減らしても使えと推奨していた。人糞、過燐酸石灰と種粕の割合が工夫した点であろう。そしてこのような苗代管理、金肥の使用、稲の品種の選定が二一年の反収七斗台の水準を二六年の反収一石三斗台へ高めた原動力であろう。
次に花岡・岡本剛一郎の明治三二年の「田畑播種肥料種類使用量覚」(史料編Ⅲ・六二六頁)を見てみよう。この記録には塩水選、短冊苗代の記載はないが実行していたとみられる。また自給肥料(堆厩肥、人糞尿)の記載もないが使用していただろう。
苗代播種 四月二九日・九か所、五月二日・七か所
肥料 〆粕四石一斗七升六合、トーマス燐酸二斗一升(〆粕一斗に付きトーマス燐酸五合の割合)
種籾 二石(富士早稲、下総坊、万倍、神力、加波山など一一品種)
田植 六月七日から一六日
田植時肥料 〆粕・過燐酸・骨粉、〆粕・過燐酸の組合せ又は〆粕のみ
一番除草後 生育不良の所へトーマス燐酸か過燐酸をまく
本田肥料計 〆粕五石八斗四升、トーマス燐酸七斗、鱗二俵、骨粉一叺、過燐酸三斗二升、調和過燐酸一斗八升
この記録の苗代反別は種籾量からみて鈴木家と同じくらいなので、鈴木家と較べてみると、苗代肥料では燐酸肥料が半分、種粕にかわる〆粕は四倍ほどになる。さらに田植え時と一番除草後の肥料を加えると購入肥料の種類、量はかなり増えていて、肥料を多く使う傾向が強くなっている。
明治三四年度、寺渡戸の岩原、山本、上阿久津の増淵安治、伏久の村上松太郎が農会の水稲試験委員に委嘱されて試作田で栽培試験をした。岩原は早稲二種と下総坊を試作している。試作田平均反収は籾で五石一斗(玄米二石五斗五升)であるが、早稲より中稲の下総坊の成績が良く反収籾五石五斗五升、肥料は厩肥・過燐酸石灰・れんげの組合せの効率が良かった。山本の場合は中稲の多摩錦が良い成績を示しており、試作田平均反収は籾五石七斗七升二合(玄米二石八斗八升六合)と高かった。村上の場合は「神力」という晩稲の多収穫品種の試作であるが、試作田平均の反収は籾五石四斗(玄米二石七斗くらい)である。しかし、厩肥・過燐酸石灰と人糞尿、鰯粕、れんげを組み合わせた三つの試作田の反収平均は籾六石七斗(玄米三石三斗五升)と高く、塩谷郡の全試作田の中でも五位くらいの多さである。試作の結果、収穫量では晩稲、中稲、早稲の順であったが、これはその年の気候、特に気温や台風の有無によって変わるので、郡農会からは収穫量が多くても晩稲に偏った作付に対しては注意がされていた。こうした試作の中からしだいに優良品種と適切な施肥、水管理の技術がつくりあげられ、病虫害予防・駆除の共同化とともに新たな稲作技術が普及していった。
栗ヶ島の渡辺家には明治三九年から昭和一七年まで渡辺 栄、佳勇父子が書き次いできた「農事之友」と題した苗代反別、水田、畑の肥料、収穫を記録した小冊子が残されている。栄は日露戦争に従軍し、戦功で金鵄勲章を受けているので、凱旋した翌年からこの記録をつけはじめたことになる。その明治三九年度分を整理すると次のようである。
一 作付反別 二町六反二畝二六歩、内二毛作は六反六畝六歩
一 苗 代 三七七坪(短冊苗代)、一反歩に付き一五坪の割合、種子は塩水選
肥料は一〇坪当り〆粕五升~八升、過燐酸五合~八合
一 品 種 藤早稲(二斗二升) 都賀錦(一斗九升五合)
神力(一斗七升)
江戸早稲 (八升) 金光 (二斗二升)
三徳早稲 (七升) 愛国 (四斗五合)
一 本田肥料 れんげ、過燐酸、骨粉を適宜施肥
一 収穫 籾一一一石四斗三升(反収籾四石二斗七升、玄米二石一斗三升五合)
備考 晩稲(神力、都賀錦)は非常な減収、小麦の後も減収だった
稲荷林(三反一二歩)、坪の内(三反一畝一歩)は二分して肥料の量を変えて金光、愛国の試作を実施(愛国は明治四三年から県の奨励品種になる)
この後の変わった点をみると、四〇年からは苗代肥料を過燐酸、アンモニア、魚粕に統一している。反収は四一年の籾五石が最高で、三九から四四年までの平均は四石六斗一升(玄米二石三斗五合)である。肥料の使用量は年々増えており購入肥料代金は四〇年は反当り二円三五銭、四一年は三円七六銭になっている。ここでも多肥・多収穫の動きが進行していた。明治三八年は東北地方を中心に冷害となり、本県の稲作も反収が五割程度に減収となったが、早稲種は比較的被害が少なかった。そのせいもあって三九年度は早稲種の作付が増えている。また、渡辺家の反収平均が玄米二石三斗台であることは、前述の村平均一石六斗台に較べるとかなり高い水準であり、この項で取り上げたような篤農の努力が村々の米作の発展を支えていたといえよう。
作 付 反 別 | 収 穫 高 | 反 収 |
12,690反歩 内早稲 1,198反歩(9.4%) 中稲 5,443反歩(43%) 晩稲 4,522反歩(35.6%) (内糯米 1,275反歩) 陸稲 1,527反歩(12%) | 8,929石 732石(8.2%) 3,595石(40.3%) 2,837石(32%) 843石(9.4%) 916石(10.2%) | 7斗 4合 6斗 1升 1合 6斗 6升 8斗 7升 4合 6斗 6升 1合 6斗 |
図56 「農事之友」の苗代と水田肥料の記事(栗ヶ島 渡辺章一家蔵)