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たばこの専売制

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 高根沢地域の農家の現金収入を得る作物であったたばこは、江戸時代から上高根沢、亀梨などで少しではあるが栽培されていた。明治になるとたばこ栽培の中心地である那須郡大山田村、芳賀郡茂木町などで県の産業奨励策をうけて産葉の改良や栽培技術の改善への取り組みが始まった。特に明治一九年農商務省直轄のたばこ試験場が大山田下郷に設けられると、那須郡、芳賀郡にたばこ栽培が広がっていった。財政の確立を急いでいた政府は明治八年に煙草税則をつくり、課税のために必要な栽培反別や収穫見込量目を届け出させることになった。明治二〇年の上高根沢村の「煙草作付御届書」では二名の地主と作人が届けているが、そこには「畑一〇歩、本年六月植付、一〇月採収見込、収穫すべき葉量見込み凡そ五〇〇匁、但し煙草種類タテ葉」と記載されていて、まだ小規模の自家用であったことがうかがえる。また、同年八月には郡役所から収穫した乾上葉量を届けるよう催促されて、村惣代が届書を出すように通知したたばこ耕作者は七五人いたので、上高根沢村の農家の四割が耕作していたことがわかる。この税則が明治二一年に改正されると県は「煙草取締規則」を定めて戸長役場から郡役所への届出を義務づけた。
 明治三〇年(一八九七)「葉煙草専売法」が公布されると、たばこ耕作者へ通知がきて、耕作する地所の地番、反別、たばこの種類、耕作者氏名を記入した標札を建てることになった。専売法が施行された三一年には北高根沢村は六〇町歩、一万八〇〇〇貫の収穫があり、熟田村の六・八町歩、一、七〇〇貫、阿久津村の四町歩、一、〇〇〇貫をはるかに越えて塩谷郡最大の産地になっていた。それで大字亀梨には茂木専売支局北高根沢出張所が設けられた。ここは葉たばこを農民から買い取る期間だけ支局から係員が出張してくるという所であった。翌三二年四月には、作った葉たばこを政府の許可なしに貯蔵すると罰金(三円以上、三〇円以下)をとるという通達が烏山葉煙草専売所から村長あてにきた(史料編Ⅲ・六七一頁)。この時、上高根沢では二一名が違反を指摘され、五月一日からは専売所員が発見すれば本当に罰金をとると警告された。たばこ耕作についての専売所や支局からの通知は村を通して各大字の耕作者惣代(区長が多かった)に伝えられ、耕作許可の申請、植付検査、収納などの事務が処理されていた。明治三四年に耕作法について厳しい指導が始まるとある程度権限をもった責任者が必要とされ、耕作者組合の組織が急がれてきた。

図57 たばこ栽培の許可証(明治38年)
(花岡 岡本右家蔵)