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たばこ耕作の指導

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 明治三七年一月一日、亀梨の火災で北高根沢出張所が焼けると、二月に廃止となり、代わって二月四日喜連川出張所がおかれた。高根沢地域の農民はこの後、大正九年八月に再び北高根沢煙草取扱所が設けられるまで喜連川へたばこを納めに行かなければならなくなった。
 この同じ年の二月一二日、茂木専売支局の指導で花岡の岡本剛一郎、上高根沢の磯市郎平ら耕作者惣代は役場に集まり北高根沢村煙草耕作組合をつくった。初代組合長には平田の鈴木昌司が選ばれた。組合は葉たばこ耕作の改良発達を目的とし、耕作に必要な事務的手続き、苗作りから収穫にいたる技術面の研究と専売所の指示・指導の連絡、専売法違反者がないよう注意することを事業内容としていた。同じ頃、阿久津、熟田両村でも組合が結成された。組合ができるとすぐに北高根沢出張所の据え置き運動を行ったが成功しなかった。
 組合を通じての耕作指導は種子の採収から苗床の作り方、肥培管理、収穫、乾燥と調理の全過程について細かく行われた。種子の採収は北高根沢村では大字単位に種子採収人をきめて行ったが、大字花岡では明治三八年は三〇人の種子採収人をきめて専売所指定の大達磨種の種子を採収した。三八年の専売所の指導は次のようだった。「苗床作りについて」(二月一七日)と「植付けについて」(五月二九日)茂木葉煙草収納所から講師がきて役場二階で講演を行った。五月二四日苗床検査、六月一九日植付け検査、八月一八日第一回葉数検査、八月二八日第二回葉数検査、九月七日第三回葉数検査と収穫直前まで検査が行われた。
 次に組合の活動を明治四四年の第六回組合打合事項(史料編Ⅲ・六七六頁)で見るとおおよそ次のようである。
 
 一 四五年度耕作予定反別の配当を正確に行い、植付けに過不足がないようにする事 超過反別の苗は廃棄する。本年は一町歩余あり手数も大変だったので注意する
 二 苗植付けの畦間、株間は甲(三尺・一尺)、乙(三尺二寸・一尺)、丙(三尺二寸・一尺二寸)の三種のどれかに一定すること
 三 葉たばこ納付についての詳細な手続と葉たばこ包装(一包六貫目)の規定(省略)
 四 納付葉たばこは乾燥不十分のものは不可、収納不適品は係員の承認を受けて廃棄するはずなので、その手続きを守ること
 
 耕作反別は耕作者の許可申請をうけて専売支局から大字毎に配当されていた。例えば明治三七年を見ると(史料編Ⅲ・六七五頁)花岡一〇町九畝二八歩、耕作人員九七、上高根沢二一町八反七畝二〇歩、耕作人員一七三人、桑窪一一町一反三畝九歩、耕作人員八五人など、北高根沢村全体では九六町六反六歩、耕作人員六九〇人となっていた。翌三八年の耕作反別は一一〇町歩にふえている。

図58 たばこの苗床(昭和55年頃)(下柏崎 小堀政六提供)