市の堀用水組合一五か村は幕末に宇都宮藩領、一橋領、真岡代官支配所、旗本領と支配が分かれており、用水修繕の費用や人足負担をめぐって紛争が多く、運営は困難を極めていた。明治四年の廃藩置県の時、旧喜連川藩領で用水費を負担せず、自由に水を使う特権を持っていた伏久、文挾が堰元の押上村などの用水組合村と同じ宇都宮県に属すことになった。組合村はこの機会に強く特権の廃止を両村に求め、両村は用水工事費五〇両を組合に前納し、毎年その利子七両を限度として人夫賃に当てることで示談が成立した。市の堀成立以来二〇〇年に及ぶ難問がここにやっと解決をみたのである。
明治一四年夏、干ばつのため用水取水口のある大久保村にことわらずに堀浚い工事をしたとして組合と大久保村の間に紛争がおき、大久保村が取水口を閉鎖したとき、折悪しく鬼怒川が氾濫し取水口が破壊されるという事件がおきた。組合と大久保村との間には実りのない長い裁判が続いたが、大宮村の駐在巡査、鈴木長松の地道で熱心な説得で明治二二年八月一応の解決をみた。町村制施行後の明治二三年六月「水利組合条例」が公布され、二市町村以上にまたがる用水については水利組合を作ってもよいことになった。用水の管理・運営を受益者である土地所有者の手に委ね、組合費は町村税に準じて徴収できることになった。市の堀組合村々も明治三三年に水利組合を結成することになった。そして、組合結成に際して大宮村大字大久保との取水口大堰締切り問題の解決をはかった。大久保と取替わした同年九月の「契約書」(飯室 鈴木俊子家文書)の要点は次のようである。
氏家町大字長久保外一〇か大字(蒲須坂、熟田村箱ノ森、松山、同新田、狭間田上組、狭間田、谷中、根本、飯室、北高根沢村上柏崎)と大久保は「市の堀用水に関し公益上将来の平和を保全せんが為め左の事項を契約し相互に之を確守する」
一、用水引入口の締切りは土用明の翌日より起算し二七日間はしない
一、この日限の翌日から地元大久保が用水引入口及鬼怒川大堰、鬼怒川大枠の取払い工事をする事、但しこの件については他より一切容喙してはいけない
一、冬水引入は巾六尺乃至八尺とし、期限は毎年一一月一日より翌年三月一日迄とする
一、用水組合から大久保へ金七五〇円を水防費として差出すこと