一、松川用水の旧慣の尊重、市の堀用水引入口は旧来の水路に限る
一、樋及付帯工事の施行は押上より委員を挙げて関与させる
一、市の堀洗堰又は用水の切干し、放水は旧慣による、水路幅の拡張又は堰の数を減らすときは押上・長久保の地主の承認を経ること
一、渇水のため新加入地区より番水・分水等を要求する場合は旧規約による
一、組合事務所をなるべく押上に置き、委員のなかに押上区民選出の重役二名以上を採用すること
(その外新加入料金、創立費用の扱いなど省略)(『市の堀』四六頁)ついで大正五年二月草川用水組合と水量について三カ条の協定を結んだ。それによると
一、水量は現在の引入口における水量を程度にして相互に侵さないこと、但し大杉塚の洗堰は現在の工事方法による事
一、水量の決定は県庁に一任する事
一、水路の組織の改良及耕地の増加等は現水量を増加せざる限りは互に異議なき事、但し市の堀用水の幹線水路敷は押上地内は変更せざる事(史料編Ⅲ・六八二頁)
となっており、現状を変更しないことが確認された。そして、水量について問題が起きたときは、組合の監督権を持つ県に決定が委ねられることになった。さらに、伏久、文挾両字とはこれまでの慣例を尊重するとして、組合費の四分免除、組合創立費は徴収しないことなどを協定した。
市の堀の芳賀郡への延長は、用水末端の上柏崎、桑窪とも深い関係があった。市の堀を延長した後の渇水に対処するためには柏崎の井沼川親堰から、親堰堀を通じて市の堀へ水を引き入れなければならなかった。それで、芳賀郡の赤羽耕地整理組合と桑窪の親堰堀組合の協議の結果、同組合が親堰堀組合に加入する条件として九項目の契約書がつくられた(史料編Ⅲ・六八三頁)。その要旨はつぎの諸点である。
一、水路幅はこれまでどおりとし修築・新設する場合の潰地の価格は田一反歩九〇〇円、畑一反歩六〇〇円、林野一反歩三〇〇円の範囲内で地主と協定する
一、親堰用水は桑窪・八ツ木地区の灌漑用水に影響を及ぼさない限り通水を良くすること、その工事設計は県に一任し、工費は赤羽耕地整理組合が負担する
大正六年以後の水揚及修繕費用は桑窪と赤羽耕地整理組合で折半して負担する
一、赤羽耕地整理組合より親堰用水加入料として一時金一、〇〇〇円、桑窪地内道路橋梁維持資金として一時金六七〇円を桑窪に提供する
一、上柏崎親堰用水路堤塘維持資金及堰地先使用料として一時金一三〇円を関係地主に提供する
一、水揚は毎年四月下旬、水切は土用秋一〇日限とする
一、天災その他災害により用水が減水した場合は組合は個人の灌漑を妨げない、親堰を修理して引用すること
一、桑窪用水の末流を(赤羽耕地整理組合が)灌漑に使うことに桑窪は異議はない
さらに、市の堀用水組合は桑窪と交渉して五年九月(実質的交渉は四月に成立)に、桑窪地内で市の堀の用水を使用する土地所有者を組合に加入させた。条件は末流なので経費負担を軽減するということだった。以上のような諸協定を関係組合、大字が結んで水利権の調整をし、市の堀普通水利組合が発足したのは大正五年六月二三日であった。組合の区域は氏家町三大字、熟田村七大字、北高根沢村二大字、大宮村二大字(大久保、肘内)芳賀郡市羽村赤羽、大内村清水、赤羽新田の一町四か村に及んでいた。この時期、用水組合は大規模な修繕工事以外は各大字の費用で運営されていたが、飯室の例でみると一反歩当たり負担金は大正一五年一八銭八厘、昭和二年一九銭五厘、三年二一銭八厘、四年二五銭七厘、五年には三八銭五厘と年々増加していた(史料編Ⅲ・六八四頁)
この後、市の堀用水は芳賀郡で祖母井町、山前村の御料地開田などでさらに灌漑面積を拡大していき、昭和一三年の幹線水路大改修のときには二町七か村で二、六三〇町歩に達していた。
図68 桑窪地内の古口堰