ビューア該当ページ

草川用水と新堀

331 ~ 333 / 794ページ
 草川用水は古くからの用水だったので、市の堀との間に大正五年に前述の水量についての協定をしていた。それは草川の水源である松川の水が市の堀に流入しているので、これを大杉塚から水神川へ流し草川へ補給するという、草川の水利権を守る協定だった。草川は川原新田(富野岡)で鬼怒川からも取水していた。市の堀が上流で大量の取水をすれば水不足になってしまうので、さらに下流で取水する釜ケ淵用水も含めた三用水は江戸時代には一つの水組を作って慣例によって分水していたと思われる。明治初年には草川下流の権現淵付近に何軒かの回漕問屋が営業し、荷駄を扱い、沿岸には人家も立ち並び、水車も営業していたという(『氏家町史』下巻・一八四頁)。また、宇都宮の材木商が筏を流すために草川を利用したこともあった。
 草川用水からは氏家用水、富野岡用水、大中用水、新堀用水が分流している。高根沢地域では氏家用水の末流が大字大谷の一部を灌漑して五行川へ流入しているのと、大谷、大字石末を灌漑する新堀の二つである。新堀は寛文九年(一六六九)ごろはすでに掘られていて、石末の新田開発が行われている。赤堀、柳林は新堀を利用して開発された新田地域である。新堀の末流はそのころは芳賀郡下高根沢村へ「落水」となって入り田を潤していたという(史料編Ⅱ・三九三頁)。
 草川用水関係各字は明治二八年に「水利組合条例」による用水組合をつくった。組合の範囲は氏家町の富野岡新田、馬場、桜野、氏家、氏家新田、阿久津村の大谷、石末、同字のうち赤堀、絹島村大字芦沼のうち大中坪の三町村八か字。運営にあたる議員は大字惣代か区長が務めた。組合規約の付則によると明治二七年に大洪水があり、取水口が大破したため、二八年に県営の堤防工事と組合施行の普請をしている。その後も毎年のように堀浚いや堀口の修繕に苦心している。明治三七年の大字石末の水利費をみると(史料編Ⅲ・六九四頁)新堀口浚い普請のため、枠木三五組、竹一四束、井木六駄、粗朶一六駄、菰(一円分)等、計一六円九〇銭を一五人の地主と宿、原、北原、赤堀、柳林の各坪に割り当てている。これは旧慣による現品取立てで、さらに夫役の人夫が出て堀口浚いの普請が行われるのである。石末のこの年の水利費は草川用水費割合、富野岡用水費割合、新堀工事費などで計二一〇円五〇銭を反別八分、筆数二分に割り一反歩金一五銭四厘、一筆金六銭二厘五ずつ賦課・徴収している。
 明治四一年三月、郡の指令で組織替えがされ、普通水利組合になった。この時、内務省による鬼怒川築堤工事に合わせて、氏家町大字向河原に新たな取水口と樋門をつくり、水路四〇〇メートルを開削して、途中で水神川の幹線を流入させ大幹線路をつくった。これで現在の草川用水の形ができあがった。
 大正七年(一九一八)春、田植え期の渇水で鬼怒川対岸の逆木用水組合と市の堀、草川両用水組合が激しく対立し、実力行使寸前にまでなったが、県・塩谷、河内両郡長・組合関係者の協議で、受益水田面積の割合で分水することになった。逆木側一、七二〇町歩、市の堀・草川側二、七五八町歩で四分六分の比率となったが、これは偶然にもこれまでの慣例による分水比率と同じであった。草川用水路は昭和八年(一九三三)にも県営事業で大改修をしているが、その時の受益面積は一、五六八町歩であった。