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開田と用水

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 明治になると土地の私有権が確立したこともあって、開墾が活発に行われるようになった。開田すると水の使用について既存の用水組合と協定を結んだ。協定の内容は多くの場合これまでの慣行にしたがっていた。ここではそうした例を幾つか見てみよう。最初の例は明治一五年に桑窪字和田原で畑三町歩余を田に変換したとき上柏崎村地主と桑窪村堀組惣代・地所変換地主惣代との約定書である(史料編Ⅲ・六八六頁)。この田は井沼川の扇渕堰から水を引くが、(一)堰はそのまま使う。(二)洪水の時は(ア)上柏崎字田中まで氾濫した時は堰元に使いをやり一同が出て立会い桑窪村の人足で堰下げをする。(イ)田中の田の畦や稲苗の頭が水没するほどの氾濫の時は必ず堰下げをすること。(三)桑窪村の用水と地続きの田を持っている上柏崎の地主に畦畔手直し賃として金二〇円出す。(四)水引は毎年八十八夜より土用明け一〇日限りとすることなどが約定されている。水利用としては洪水の時の堰下げの項が重要な取決めである。
 次は花岡の農民(被控訴人)が冷子川の用水堀の水を新田三反四畝歩に使ったことに対し平田の地主(控訴人・原告)が使用差止めを要求した控訴審の判決である(史料編Ⅲ・六八八頁)。控訴人は冷子川は平田字大塚外一二字の水田三四町四反余歩の水使用権が確立しているうえ、すでに水不足の状態なので被告の使用により収穫に損害を受けるとして使用差止めを求めた。しかし、判決はこれまで花岡住民が冷子川の水を使う時の慣行に従って被控訴人が新田に水を引き、堰にも水路敷にも手を加えていなければ、それは水利権のある花岡住民の許可を得て分水したものと考えられるとして原告敗訴の判決を下した。ここでは「古来の慣行」を守って水を使うことは他者の権利の侵害にならないとして保護されている。
 三つめは阿久津村大字石末から発する海老川用水について上高根沢の字金井と字西根の間で取替された約定書(史料編Ⅲ・六九九頁)である。海老川用水は金井・西根の用水の源流だから両字には水利について「古来の慣習」があった。それは海老川流水を分けて七分を東部の用水、三分を西部の用水に当てること。分水堰は杭木、枕木を用いず小石を積んで作ることの二点だった。明治三三年七月、両字はさらに新しい条件をつけ加えた。それは次の二点である。
 
  一、分水点の石堰より下流、東西共に五〇間以内に新堰、溝渠付換えなど流水の障害になる事を企画しないこと
  一、連合組合外の者で石堰付近の土地所有者が自分の便宜を図り、東西共に前の規定内または上流と雖も二〇間以内に溝渠付換え或いは新堰などの新工事を企図する者あるときは、下流連合組合は一致の同意に基づき懐旧談に勉め如何なる場合におけるも(反対の)意向を貫徹せざれば止まざること
 右の通り相互に固守して累世累代子々孫々に至も懇和以て水利上争論紛擾なからしめんを要す(後略)
 
 この追加された二条件は開田が盛んに行われる中で、用水使用の既得権を持つ「連合組合」の権利を守り、分水点近くで新たな分水をさせない取決めである。
 以上の三例が示しているのは、水利権が長年にわたる水利用をめぐる利害の対立を調整する過程で成立した慣行として存在していること、また、既得権を守るために新たな慣行が作られることもあるということである。こうした水利慣行は現在のように構造改善事業によって用排水路が整備され、かつ取水設備の共同化と巨大化が実現した時代でもいったん水不足となると、紛争解決の基準として重要な働きをしている。