「学制」が公布され、小学校の創設は明治六年以降急速に進んだ。全国的にみても小学校数は、明治六年の一万二五五八校から毎年増加し、学制が廃止される明治一二年には、二万八〇二五校に達した(『学制百年史』)。しかしながら、小学校が各村において順調に運営され、「学制」の趣旨が行き渡ったわけではなかった。
栃木県の場合、明治六年に創立された二五七校の小学校が、明治八年には六五八校にまで増加したが、その後減少し、明治一一年には四七三校までになっている。また就学率を見ても、明治六年の二三・三パーセント(男三一・三パーセント、女一三・五パーセント)が、明治九年には四九・一パーセント(男六七・三パーセント、女二九・四パーセント)にまで上昇したが、翌一〇年には四三・七パーセント(男六一・五パーセント、女二四・三パーセント)、一一年には四一・〇パーセント(男五八・四パーセント、女二二・二パーセント)に減少している(『栃木県史』史料編近現代8、栃木県教育統計)。
これらはこの時期、栃木県下小学校の統廃合が進んだためであると思われ、学制の画一主義的な小学校設立方針の行きづまりを反映しているようである(「花岡村学校合併願書」、「貧村により学校合併願い」史料編Ⅲ・一〇二九頁)。
旧栃木県は、学制に定められた洋学中心の教育内容に対する人々の反発を、当初から予想していた。明治六年三月に出された「学区取締役心得書」において、「……尋常小学教則中、算法を除くほかは、すべて洋学ではない。ところが人々は誤解し一途に横文(洋学)のみを学ぶことと思い、大いに学制の趣旨を失している……」(『栃木県史』史料編近現代8・七頁)とし、人民への説諭を学区取締役の心得の一つとしていたほどであった。
人々の生活から離れた学制の内容と(樵夫や農民の子供を駆り集めて、そして教えることは何かというと、北米合衆国の大統領ワシントンがいつ生まれたとか、フランスのナポレオンがいつ死んだ、というようなことを暗記させるというようなことで、こういう調子の教育が行われていたのである。)(『近代日本教育制度史』)、子供の就業が家庭における労働力を削減させることや過重な民費負担などに対する不満は、全国各地で農民一揆を引き起こし、他県では小学校を破壊した地域さえあった。
そして明治九年、自由教育論が勃興し、政府主導の「干渉主義」に対して「人民自為」の「自由主義」の主張があらわれ、また一〇年代に入ると、「教学聖旨」(明治一二年)に見られるように、保守派の側からは学制体制における欧化主義と知育偏重が非難され、伝統的倫理による徳育の強調と、民情から遊離した教育内容の改良が求められた(『栃木県史』通史編6近現代・二八七頁)。