教育令公布を契機とした動きの一つに、太田村有志を中心に、近郷村落の有志を後見人・世話人として結成された、籖による学資金積立方法の会がある。
明治一三年一一月に配布された同会の積立法緒言(序文)によると、「せっかく設立された小学校も、学資の欠乏により、中断あるいは衰退のきざしがある。私たちは深く憂慮するところである。そこで公立小学校において、教育が盛んに行われるように籖を使って学資金を積み立て、教育の道を永遠に維持したい。」と趣旨を述べ、入会を呼びかけている。続いて同書は籖数一、六〇〇本、一口三二銭を示している(史料編Ⅲ・一〇三五頁)。
その結果、多くの人々が籖を申し込むため学校に押し寄せ、授業を行うことが困難になった。そのため当太田学校教員の松岡真は、同年一一月二五日から一週間を、当年の冬期休業中の一週間と交換したいと学務委員に願い出るまでになった。
籖の会日は、毎月二〇日であり、午前一〇時に集まり午後二時に開札した(「学資金積立請取証」栗ヶ島 渡辺章一家文書)。これによると、一二回分まで領収印が押されており、一年間は続いたことが分かる。しかしながらその後、この会がどのように運営され学資金が積み立てられ利用されていったか不明であるが、教育令の公布を契機に、従来の学校制度に地方レベルの検討が加えられ、民力に相応した教育補助を自発的に考案した点は注目される。