教育令は、その起草・公布の中心となった田中不二麿が、アメリカの地方分権を基本とする教育行政を参考とし、また、当時盛んになった自由民権運動との関連からも、地方の実情に基づいて小学校設置に自由裁量の余地を与え、就学義務を緩和したものであった。
そのため、地方においては財政上の理由などから廃校する所もあらわれ、就学者が、急減した地域も少なくなかった。
また、先に、欧化主義の風潮の中で、知育に偏重する教育に対し、伝統的な価値や慣習を重視する立場から批判も強まり、明治一二年「教学聖旨」が示されることになった。
それとともに、高まってきた自由民権運動に対し、政府はそれまでの妥協的な姿勢を改めて干渉を加え、やがて明治一三年には集会条例を定めて弾圧を強めていくことになる。
明治一三年に発行された「栃木県年報」の「管下学事の事」では、次のように述べている。
西南の変乱(役)があり、改組の事業(地租改正)があり、これらが皆いくばくかの支障を教育上に起こしており、文運の機運はその活動を止め、遅々渋滞している。ここに教育令が発行され、ついに放任主義をもって教育の方向をおかしなものにし、人民は教育の興廃があたかも自分の掌中にあるかのように考え、学資を大いに減らし、事業を縮小し、わずかに学校の名目を存するのみで満足し、昔の寺子屋のごとく、普通教育の進路を妨害しており、全く困りきったことである。