先の教育令の改正において、学校教育、特に小学校教育の普及振興が強力に企図され、我が国における学校の基本形態は一応確立された。しかし、松方デフレが主たる原因となり、政府の熱心な学事奨励にもかかわらず、明治一七年ごろより就学率は下降し、学校増加率も減少していく傾向が見られた。栃木県においても、明治一二年から増加し続けてきた児童数が、一八年にかけてわずかではあるが次のように減少している。一二年―四万二一六四人、一七年―六万二三六七人、一八年―六万一五四五人(『栃木県史』史料編八 栃木県教育統計)。この原因は、国民経済の困窮とともに、改正教育令における小学校教育費に対する国庫補助制度の廃止と、明治一二年の教育令から続く授業料徴収の任意制度の採用による、市町村財政の困難があげられる。
そこで、明治一八年八月、教育令は再び改正され、国庫補助金廃止のもとで、地方財政の負担軽減をねらいとして、町村は再び授業料を徴収することになり、学制当時の受益者負担主義が復活した。また教育令以来の学務委員は廃止され、町村の学事は戸長がつかさどることになり、教育行政は一般行政に完全に包含されることになった。
条文はさらに簡略化され、三一か条となり、地方の実情にそった簡易な教育を認めた点に特色がある。すなわち小学校のほかに寺子屋風の小学教場を設けることができるとした。
再改正のねらいが小学校経費の節約という点に置かれていたので、ここには教育制度の後退が見られる。そのためこの教育令は、公布後数か月にして廃止され、これに代わって各学校種別ごとにそれぞれ学校に関する法令が制定されることになる。