文部省の積極的な努力によってまず創出された学校行事は、学校儀式であった。古くからはっきりした基準もなく行われていた儀式は、明治中期より天皇礼拝の宗教的儀式として確立されていった。明治二二年五月から翌年五月まで記された上高根沢尋常小学校の学校日誌から、学校儀式を拾い出してみる(史料編Ⅲ・一〇五五頁)。
九月二三日 秋季皇霊祭
一一月三日 天長節
一一月二三日 新嘗祭
一月三〇日 孝明天皇祭
二月一一日 紀元節
三月二一日 春季皇霊祭
ただ、すべて「一一月三日、天長節につき休業」などとあるように、教員・生徒が学校に集合して儀式を行うというものではなく、単なる休日であった。それが明治二四年、文部省令で「小学校に於ける祝日大祭日に関する規程」が制定され、翌年には、本県でも県令により「小学校祝日大祭日儀式に関する次第」が定められ、学校において来賓を招き、儀式を行うようになってくる。
このように、明治後半期以後、小学校における祝祭日学校儀式は普及し、揺ぎないものとなっていった(「天長節・紀元節祝賀式参列案内状」史料編Ⅲ・一〇八二頁)。
前記の学校日誌で、入学式・卒業式という記事は見当たらない。ただ、「四月二五日、大試験結了。卒業証書を渡す。受験生四三人、落第一人。」あるいは「五月三日、開校始業。」と記されており、まだ就学率の低い明治二二年当時では、日を決めて入学式・卒業式を実施することは、不可能であったと思われる。ただ明治二七年には証書授与式が行われており、村長・学務委員・区長等の臨席のもとに、卒業生に証書が渡されるようになっている(史料編Ⅲ・一〇七一頁)。
また、五月に始業し、四月に大試験(卒業試験のようなものか)を行い卒業証書を渡すという、現在との時期のずれは興味深い。なお、四月一日に始まり、翌年三月三一日に終わるという全国一律の学年暦が採用されたのは、明治二五年(一八九二)である。
次に、今日学芸会というと演劇や音楽が中心であるが、これが我が国で取り入れられたのは、大正期に入ってからである。それ以前は、運動会ほど広く普及していたわけではなく、また内容も、朗読・談話・唱歌などがほとんどであった。さらに、それより以前の原初的なものとして、展覧会・幻灯会と呼ばれるものがあった。明治四三年(一九一〇)一二月、上高根沢尋常高等小学校の児童が、教育品展覧会に作品を出品しているが、これがそれに相当するものと思われる(史料編Ⅲ・一〇八八頁)。
翌四四年二月、阿久津小学校で学芸練習会が開催された。内容は、読方・話方・綴方・唱歌・遊戯ほかで、演劇はわずかであった。また来賓として村の助役・収入役・役場吏員等が参列しており、学校教育の成果を地域社会に公開するという性格が表れているようである(史料編Ⅲ・一〇八一頁)。
続いて運動会であるが、これも学芸会と同様の性格を持っており、法令上も特に規定はなかった。
上高根沢尋常小学校は、明治二二年一一月一六日に、私立宇津小学校と合同で太田迎(向)原において、また一一月二八日、台ノ原において運動会を実施した(史料編Ⅲ・一〇五九頁)。一一月一六日の運動会について、下野新聞は次のように記している。
運動場の入口には国旗を交叉し、四方網を張り、生徒控場及び接待員等の席は残らず幕で囲み、正々堂々あたかも戦陣の備えのようである。発起者のあいさつの後、赤白の二隊東西に分かれて旗戻し・駆け足・競争・綱引き・投げ輪・二人三脚競争、及び高等小学校の球竿体操・兵式体操等が行われた。優等者には紙製石盤・靴下・鉛筆ほかを賞与し、一般の生徒へは赤飯及び半紙ほかを与えた。終了は午後五時頃、来観者は二、〇〇〇人余りで、当地未曾有の盛会であった(史料編Ⅲ・一〇六二頁)。
飾り・競技種目・来観者の多さなど、現在の運動会とよく似ているようである。
遠足・修学旅行は、欧米にはあまり類がなく、教育法規上何の規定も持たず、我が国独特の学校行事であるといわれる。
明治二二年一〇月、太田尋常小学校と第三高等小学校太田分教室の生徒が合同で、修学かたがた運動のため、旅行(遠足)を行った。その様子は次のようであった。
朝七時に学校を出発し、ラッパ手を先導に桑窪に出て、給部を経て太田尋常小学校中柏崎分教室に至り、さらに那須郡田野倉尋常小学校八ケ代分教室に正午に到着した。八ケ代は、高等小学校の学区は那須郡であるが、通学に不便なため、児童は皆太田に寄留し、太田分教室に入学していた。そのため歓迎を受け、昼食として赤飯を出してもらった上に、生徒は墨一つずつもらっている。そして午後二時に帰途につき、午後五時過ぎに帰校した(史料編Ⅲ・一〇六二頁)。
なお、「遠足」という言葉が一般に使用されるようになったのはやや遅く、明治三〇年代後半になってからであり、それまでは「旅行」、「行軍」などとよばれていた。
図76 運動会の棒たおし(昭和初期)(大谷 阿久津純一提供)