北高根沢村には、明治二六年尋常高等小学校ができたが、実際には太田の宝泉寺(現廃寺)を仮用しており、新校舎の建築は村人にとって大きな課題であった。
そこで、明治三〇年より新校舎の建築委員を村会で選定し、彼らを中心に敷地の選定を始めた。同年候補地が上がったが、一一月の村会では否決された。翌年七月、村会で新築方法書を決議し、一二月の第三八回村会で、出席一四名中賛成一一名、反対二名、無効一名で、敷地が選定された。
その後、詳しい理由は分からないが、敷地問題をめぐって数か所の字の住民が役場に押し寄せ、新築委員の辞任要求を強硬に主張する事件が発生した。そのため数名の委員が即刻辞任することになり、委員会を開くことさえできなくなった。そして、さらに数か所の字人民は役場集結の数を増やし、はなはだ不穏の状況になったため、村長は村の駐在巡査を呼び、警戒にあたるほどであった。
三二年一二月半ばには、村長渡辺甲子に対し辞職勧告書が提出され、同月二四日村長は、新築問題で一部の人間の暴挙に起因するとはいえ、村民に深く迷惑をかけたとして辞退届を提出した。結局辞任したのは三三年九月であるが、その間塩谷郡長や、村内有力者の宇津権右衛門、矢口長右衛門などが双方を仲裁し、同年一二月、両者は和解した。
翌三四年七月に、校舎は太田一一八九番地に新築落成し、仮校舎から移転することができた。翌年には「御真影」が下賜されている。
表40 明治二六年高根沢町管内公私立小学校表
学 校 名 称 | 設立の区分 | 所 在 地 | 創立年 | 修学年限 | 学級数 | 訓 導 | 准訓導 | 生徒数 | 日々出席生徒平均数 | 学 校 長 (首座教員) | |||
男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | ||||||||
文挾尋常小学校 | 公立 | 熟田村 文挾 | 明治二五 | 四 | 一 | - | - | 一 | - | 四四 | 四 | 三九 | 小瀧 栄太 |
北高根沢尋常小学校 | 同 | 北高根沢村太田 | 六 | 四 | 二 | 二 | - | - | - | 五二 | 八 | 四二 | 宇津 礼五郎 |
北高根沢東部尋常小学校 | 同 | 同村 中柏崎 | 六 | 四 | 一 | - | - | 一 | - | 三四 | 九 | 二八 | 谷口 彌六 |
北高根沢南部尋常小学校 | 同 | 同村 上高根沢 | 六 | 四 | 一 | 一 | - | 一 | - | 七七 | 一二 | 五五 | 塩田 一馬 |
北高根沢北部尋常小学校 | 同 | 同村 花岡 | 六 | 四 | 一 | 一 | - | - | - | 七五 | 一六 | 五七 | 野沢 辰之助 |
北高根沢尋常高等小学校 尋常科 平田分校 | 同 | 同村 平田 | 二六 | 四 | 一 | - | - | - | - | 二一 | 三 | 一七 | |
同 同 亀梨分校 | 同 | 同村 亀梨 | 二六 | 四 | 一 | - | - | - | - | 二三 | 五 | 一七 | |
同 同 桑窪分校 | 同 | 同村 桑窪 | 二六 | 四 | 一 | - | - | - | - | 二三 | 四 | 一六 | |
大谷尋常小学校 | 同 | 阿久津村大谷 | 二六 | 四 | 一 | - | - | 一 | - | 四四 | 二三 | 五七 | 細井 禎二 |
石末尋常小学校 | 同 | 同村 石末 | 二六 | 四 | 一 | - | - | 一 | - | 五六 | 二六 | 五二 | 永井 習吉 |
宝積寺尋常小学校 | 同 | 同村 宝積寺 | 二六 | 四 | 一 | - | - | - | - | 四八 | 一七 | 五二 |
明治26年 栃木県学事年報から作成
図77 辞任した渡辺甲子村長