神社では毎年例祭日が決められ、祭礼が行われた。
大谷の大杉神社には、例祭時の神輿渡御について大正一〇年三月に議決された覚書がある。大杉神社は高龗神社の境内地にあり、三月一七日・七月一七日・一一月一七日の三回例祭が執り行われた。当日は境内に午前一〇時に大字一同が集まり、役員たちは礼服着用にて神殿、神輿の装飾を行うものとした。神輿渡御の際の御仮屋は各坪に一か所設け、注連縄を飾り御神酒や供物を供えた。神輿渡御は各坪の御仮屋を回り、お囃子は神輿が戻ってくるまで打ち鳴らしたという。各坪では総代以下参拝者は礼服で神輿渡御を待ち接待したが、そこでの休みは三〇分程度と定められていた。
高龗神社では祈年祭(二月二八日)・例祭(一〇月二〇日)・新嘗祭(一一月二三日)のほかに、斉田地神祭(五月)・斉田田植式(六月)それに新穀供納式が行われた。当日は、祈年祭・新嘗祭ともに午前八時に門に注連縄と国旗及び五色の旗を立て、拝殿等の掃除のあと、手水舎・拝殿・御供所に注連縄を張った。鏡餅は糯米五升を使い大を三重・小を一二重ほど作りお供えとした。他に季節の野菜が供物として供えられた。例祭については、一〇時に執行され、当番の人たちが集まり、それぞれの持ち場の仕事に従事した。注連縄は鳥居・水舎・拝殿・御供所・祓戸に張られた。鏡餅・煮しめをつくり、参拝に来る人たちを待った。
この他、習俗として行われてきた宮詣りや婿入嫁入奉告祭・誕生奉告祭があり、四年以降始まった小学児童入学卒業奉告祭や徴兵令施行以後慣例となった軍人入退営奉告祭、大谷婦人会による敬神婦人会の参拝、献穀祭が行われた。これは大正一一年当時の行事であるが、軍人の入退営の際の奉告祭をはじめとして、神社は戦時色が濃くなると、こうした行事を通して、戦争遂行の精神的側面を担うようになっていった。
なお、時代が前後するが明治三一年七月二七日付けで、祭典供養興行の際には、必ず所管の警察署に届け出ることが義務付けられた。これは、赤痢の流行を防ぐという目的があり、祭典や供養興行、盆踊りなど多数の人々が集まる場合において、祭の主催者は認可を受けるものとした。また、違反した時には、八五銭以上一円以下の科料に処すと規定された。