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町内の寺院

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 明治維新期の廃仏棄釈により、廃寺となった寺院は、本町でも数多い。上高根沢村では多く五つの寺院が廃寺に追い込まれ、宿の宝性院と正明寺・咲内の光明寺・西根の正勧寺、そして神原の浄性寺であった。他に、大谷村の正善寺・中阿久津村の華蔵寺・栗ヶ島村の地蔵寺と花岡村の大徳寺、それに太田村の宝泉寺等が廃寺となっている。
 西根の正勧寺は、真言宗の寺院として宇津権右衛門所有地にあったが、明治六年の宇都宮県時代(明治六年六月一五日に栃木県と宇都宮県が合併して栃木県となる)に新寺取調べが実施され、その時、無住であったため廃寺の対象となった。その後、地租改正による地券の発行に際して、官有・公有・民有の区分の確定において、正勧寺境内跡地五畝二歩は宇津権右衛門の所有に帰した。
 咲内の光明寺においても、六年の社寺取調べの際に無住により廃寺となっている。この境内地六畝五歩も、寛文四年(一六六四)九月二〇日の松平下総守の検地が根拠となり、元の高瀬九平の所有に戻っている。同じく宿の宝性院も、同じ年に無住・無檀寺として廃寺となった。ここでは、境内地八畝二七歩は本寺である淨蓮寺に返地と決定された(史料編Ⅲ・五〇四頁)。なお、三つの寺院とも上高根沢真言宗淨蓮寺の末寺・門徒寺として建立されていた。
 本町においては、真言宗寺院が多く五寺を数える。上高根沢・宿の淨蓮寺は、無量寿山淨蓮寺阿弥陀院と号し、宇都宮市宮二丁目能延寺の末派で、真義真言宗智山派に属し、建立は宝徳三年(一四五一)二月に恵海和尚の開基という。明治元年に仮堂を建て、阿弥陀如来座像を安置し、大正一一年一二月一〇日、本堂が建立され入仏式が行われた。
 他に真言宗寺院として、桑窪の大安寺は、桑窪山(摩尼山地蔵院)大安寺と号し、智山派に属し、本尊を不動明王とする。文挾の広蔵寺は、延宝五年(一六七七)の開基と伝えられている。伏久の広林寺は、天保三年(一八三二)一二月の建立という。石末の大聖寺は、石居山医王院大聖寺と号し、弘長二年(一二六二)一〇月二八日、石上和尚の開基と伝えられ、宇都宮市上桑島町の金剛定寺の末寺であった。弘化四年(一八四七)の火災により全焼し、明治元年仮堂が建てられた。
 日蓮宗の寺院としては、上高根沢・木内に本立院が明治になって建立された。元は東京府豊島郡谷中村にあったもので、一二年三月二四目に官許により移転再建されたものである。建立に当たっては、赤羽宥松外一五名が力を注いだ。亀梨の妙福寺は、文永元年(一二六四)一一月一一日の創建によるが、弘化三年の火災に遭っている。明治二四年四月には、困窮のため妙顕寺住職との兼務願いが、檀家総代から宗務庁へ出されている。一方の妙顕寺は上柏崎にあり、本寺はもと天台宗として創建されたが、後に真言宗寺院となり、さらに元和元年(一六一五)に現在の宗派に改宗したと伝えられている。駅近くの東町には連性院があり、本堂前の碑に由緒が刻まれている。それには、以前南高根沢村にあったものを、駅周辺の開発とともに人口が増加し、寺院の必要性が高まり、当地に移したと記してある。本堂は塩谷・那須・河内・芳賀の信徒の浄財により大正五年二月に完成したという。
 曹洞宗寺院は、花岡の地蔵寺と亀梨の量山寺があり、浄土真宗寺院は桑窪の徳明寺と宝積寺の定専寺がある。栗ヶ島には天台宗の光見寺があったが、現在は廃寺になっている。

図82 淨蓮寺の本堂