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駅と正月の風景

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 明治三二年(一八九九)に宝積寺駅が開業すると、駅周辺は市街地が形成されていった。特にここでは宝積寺殖民株式会社により市街地の開発が行われ、現在の西町・東町を形成する道路の開削を行い、道路沿いに宅地を区画して貸し出すという、他にはあまり見られない発展の経緯がある。三三年の野取絵図帳によると、同会社からの土地の使用は個人の家が一二一戸、会社が二社で、個人の家は三〇坪~五〇坪の区画が多く、次に六〇坪~八〇坪の区画が多かった。家の間口は東町・西町ともに様々で、奥行きは西町で一〇間が最も多く、東町では四間~一二間とばらつきがあり、地形に左右されたようである(「宝積寺殖民株式会社」)。
 宝積寺駅が薪炭とともに米の集散地、積出し駅となると、それにかかわる商店による年中行事が華やかに行われた。その一つが一二月二〇日の恵比寿講で、この日は宝積寺駅付近の商店は高張提灯を掲げて売出しを行う光景が見られた。大正元年には玄米の買入において永倉支店の二、二〇〇俵を最高に、合計七、〇〇〇俵に達し、商店街の両側を俵で埋め尽くしたという。また、肥料店においても鈴木支店の六、〇〇〇円余を最高に、前年に比べて二倍強となり、好景気に支えられこの時期売上げも順調であった。
 また、正月二日の初荷の風景は、まさに壮観であり、明治四四年一月三日の下野新聞には、二日の出荷数は花井屋が出荷米六五〇俵・買入米三八〇俵で馬車四〇台が繰り出された。吉野屋は出荷米三〇〇俵・買入米三一〇俵で馬車二一台、飯倉商店が出荷米六〇〇俵・買入米二二〇俵で馬車四〇台、加藤商店出荷米三五〇俵・買入米一八〇俵、川又商店出荷米六〇〇俵・買入米二一〇俵と、大量の米の初荷が行われた。さらに、鈴木運送店が馬車五〇台、小川運送店が馬車二五台など初荷のための駄馬は六五〇頭に上ったという。
 このように、宝積寺駅の開業による駅周辺の開発とともに、宝積寺は米の集散地としての地位を確立していった。そして景気の変動に左右されながらも、駅前周辺は活気がみなぎる商店街へと発展していった。

図84 宝積寺駅前の正月風景(昭和27年頃)