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明治期の消防組織

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 火事は一瞬にして家や財産を灰にし、場合によっては人命をも奪い取るものである。そのため消防は明治に入ると早くから組織化されて行った。それは、政府による消防組規則の制定や県の消防施行細則などにより、消防組が法的に位置付けられたためである。市町村の消防組は大字を単位に組織されるのが普通だったが、家数の多い所は二つの組をつくることもあった。北高根沢村では上高根沢・平田などがそうである。
 上高根沢東組では、明治二三年一二月一七日付で消防組合規約を制定している。東組の場合五三人をもって組織され、次のような役割と器具が備えられた。
 
  頭取一人 副頭取一人 小頭一人 旗持一人 高張持二人 鳶口一〇人 水汲手桶二〇人 龍吐水掛一二人 楷梯二人、器械竜二人 サスマタ一人
 
 このように、消防組は頭取・副頭取・小頭という指揮系統で消防活動にあたったが、特に、頭取は強い権限を持っていた。また、当時の消防器具は龍吐水や器械竜といった手もみのポンプにより放水するもので、他に鳶口・手桶といった、まだまだ江戸期の火消と同じ器具が普通だった。
 消火作業は、頭取らの指揮のもとに行われたが、この時期の消防組は警察官の指揮監督を受けていた。そして、出火の場合は、直ちに警鐘を打ち鳴らして知らせ、消防夫は器械置場に集合し、頭取らの指揮により現場に急行して消火作業にあたった。鎮火後も頭取・警察官の指揮を受け退場した。また、年の始めには出初め式を行い、警察官の点検を受け、冬期の夜警を行う場合も、警察署に届が必要であった。さらに、消防夫が理由なく消火出動しなかった場合には頭取からの戒告ないしは過怠金(罰金)が課された。過怠金は頭取・副頭取・小頭が出動しなかった場合は二五銭、消防夫は一五銭と定めらていた(史料編Ⅲ・五二八頁)。
 また、北高根沢村では二七年七月消防規約が定められた。平田には南北の消防組があり、それぞれ三〇名の消防夫が仮定員だったが、そのほか一六名の増員が求められた。さらに、部長・小頭の職務を補佐するものとして、県から消防世話掛二名が選ばれてきた。また、出火の際の信号や消防機具器械の点検についても定められていた(史料編Ⅲ・五三〇頁)。
 阿久津村でも大字ごとの消防組が組織されたが、家数の多い石末では、籠関・柳林・赤堀の三字をもって第六部消防組が組織された。消防手は部長の野口運太郎をはじめ小頭七名、機械取締役四名、機械練習者六名など八四名を数え、器械置場及び火の見は三つの字の中央の柳林に置かれた。大正四年の器械機具設備の内訳を見ても、明治期と変わらず、喞筒一 梯子一 信鈴一 鳶口一二 消札五 水桶一二 名旗一 高張提灯一 役員提灯八 役員小旗八 消防手提灯と、もっぱら消火は延焼を防ぐために家屋を破壊する破壊消防であったようである。このため、阿久津村消防第九部は破壊隊と称し、各部選抜の消防手により組織されていた。

図85 大谷の消防組と消防自動車(大谷 永島興志郎提供)