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伝染病と衛生組合

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 明治に入り近代化されたといっても農村部では江戸時代の生活を継承していたもので、医療面においても衛生面においても、整ったものではなかった。このためコレラや伝染病が断続的に村を襲い、その年には多くの犠牲者を出した。各市町村ではコレラに対して隔離病舎を設置して患者に対応した。コレラに対する予防については、阿久津村で各大字に対し明治二四年五月二三日付の通知に、前年の二三年にコレラが流行したことを受けて、今年の夏も発生する可能性が高く、事前の消毒の徹底を呼びかけている。さらに、二五日には県及び郡役所の職員と警察官による各戸ごとの巡視があるため、特に清掃に留意するよう通達された(史料編Ⅲ・五三五頁)。いったんコレラにかかると医療費等も高額で、コレラ患者への治療費・薬代に対する扶助願が出されるなど、本人はもちろん家族のものにとっても大変な病気であった。
 また、天然痘に対しても種痘により予防の手が早くから行われていた。種痘接種の通知は、役場から各衛生組合長を通じて行われ、北高根沢村花岡では三八年一二月一四日花岡尋常小学校において、花岡・西高谷地区を対象として種痘接種が行われた。これは、軍隊の凱旋により満州や韓国からの病毒を防ぐというもので、種痘対象者はすべてリストが作成され、あわせて今までの未種痘者等に対しても対象とされた(史料編Ⅲ・五四一頁)。
 このため、各町村では町村ないしは大字ごとに衛生組合が組織され、村全体で予防することが義務づけられた。北高根沢村では二九年四月に村全体の衛生組合規則を作成し、住民全員を組合に加入させた。その目的は清潔法の執行を円滑に行うためのものであるとともに、伝染病患者もしくは疑いのある患者を発見し通報する組織でもあった。組合には、組長一名、特に大字上高根沢は副組長一名を置くものとし、その下に世話掛が置かれた。世話掛は便宜的に近隣で一つの団をつくり、その団ごとに一人置いた。組長・世話掛とも手当は支給しないとしたが、伝染病患者に接する場合は、村費より組長一日五〇銭以内、世話掛三〇銭以内と定められた。また、組長・世話掛が使用する消毒薬は村費から支出するが、清潔法の執行上必要な生石灰は各自負担とされた(史料編Ⅲ・五三五頁)。
 阿久津村には上阿久津・中阿久津、宝積寺東町、同西町、大谷、石末の七支部が置かれたが、村の衛生組合規則にのっとり、各支部でも組合規則が制定された。大谷地区の規約を見ると、目的は「伝染病予防に対する清潔法・消毒法・その他衛生に関する事務を施行する」と記され、大谷区民全員が組合員であることが規定されている。大谷は阿久津村第二衛生組合と称し、組長・副組長・管理人各一名が置かれた。組合は小字ごとにさらに、天沼組・東組・宮下組・関場組・西大谷組の五部とし、そこにそれぞれ世話掛一名が置かれた。世話掛は字内を巡回し衛生に対する指導を行い、伝染病患者もしくは疑いのある患者に対しては医師の治療を受けさせ、患者の家の汚物の散乱を防ぎ、消毒または隔離等を行うことを仕事とした。これにより、正副組長・管理人・世話掛などに対し手当てが支給され、年手当とともに伝染病の発生時の手当(一円~五〇銭)が規定されている(史料編Ⅲ・五三六頁)。
 こうした組織を通じて、北高根沢村では三八年四月に各衛生組合長あてに村内清潔法の実施が通知されている。これは、春季の衛生清潔法の規定によるもので、係員の臨検前に清掃を終了するためのものであった。実施日は、中柏崎・下柏崎・栗ヶ島・寺渡戸が二五日、亀梨・上柏崎・西高谷・花岡が二六日・平田・花岡が二七日、太田・上高根沢が二八日、そして桑窪・上高根沢が二九日と定められた。当日は村の職員が派遣されて指導に当たった。
 清潔法の施行に当たっては、事細かに規定され、一般の家に対しては、まず畳・薄縁・寝具は四時間以上日光にさらし、室内を掃除し床下のほこりを掃除する。井戸・便所・側溝などは掃除し、破損箇所を修理する。また、湿めったところには乾いた砂を敷くなどが注意点として挙げられていた。これに対して、今までに伝染病患者を出した家については厳しく、家屋の柱・天井・板間は石炭酸水で拭き、さらに洗浄する。床下は掃除後生石灰を散布し、畳・薄縁は石炭酸水で拭き洗浄の後、四時間以上日光にさらす。家具・衣服・寝具類は同じく日光にさらす。便所の戸、踏板にも生石灰を散布し、糞尿壺及び周辺に生石灰で消毒するというように、石炭酸水や生石灰での消毒が特に義務付けられた。このように、まだまだ医療が発達しなかったころは、地域ぐるみで伝染病の予防に当たったのである。
 さらに、駐在所からは毎年五月には保健衛生の注意事項とともに、農繁期の注意が呼びかけられ、特に子供によるマッチのいたずらや、空き巣への用心、用水堀での事故の予防が強調された。

図86 コレラに対する救済の感謝状(太田 見目清三家蔵)