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電灯がつく

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 電灯が灯ることで、人々は文明の進歩を感じ、それまでのランプの生活との差を実感したに違いない。
 この地域をカバーする電灯会社は塩那電気株式会社があった。それまで、大田原電気株式会社・野州電気株式会社・烏山電気株式会社がそれぞれ独自に電気の供給を行っていたが、大正四年一一月一日の合併により新会社として塩那電気株式会社が発足したのである。三会社による合併でできた塩那電気株式会社は、資本金八万五〇〇〇円、株主七七名、株数は三社の株券をまとめて四、九〇〇株であった。
 大谷地区では共同による電灯の設置を計画していた。すでに大正四年から電灯の導入を考えていたが、価格的に高額なため導入ができなかった。一時は独自に発電所の建設のため技師を依頼し測量までしたが、発電所の場所の問題などで、のびのびとなってしまっていた。そして、昭和二年八月多年の懸案であった電灯の導入について、電灯会社との間で協議が重ねられたが、建設費について金額が折り合わなかった。けれど会社側が工事代金を値引きし、大谷地区側も一戸当り支出を一四円(関場坪)ないし一三円(天沼坪・東坪・宮下・西大谷)とし、不足分については、字の有志が負担することで決着した。
 これにより、一〇月一二日電灯会社との間で契約が取り交わされた。その後の承諾書の中には、会社側は一三二名(一九五灯)に対して電灯を供給すること、電線の建設については大谷側が二、七三〇円の支払いと工事中の人夫の提供をすること、さらに電柱や支柱を個人所有地内に設置した時は、向こう二〇か年無償とすることなどが記されている。電灯を引き入れるに当たって、地元では、今では考えられないほど譲歩している姿がみられる。
 なお、一一月四日付で「大谷電灯点火組合規約書」が作られた。組合は大字大谷地内とし、塩那電気株式会社所属の電灯点火者及び電力需要者をもって組織することが記されている。つまり、塩那電気株式会社と電気の需給契約が結ばれたことがわかる。組合長を大谷区長黒内長一郎とし、幹事は各組総代が当たることとした。また、新加入の者は「本組合に対し電灯点火創業当時会社に納入した一灯平均寄付金一四円及びこれに要した諸費分担金を組合に納入すべし」とあり、組合員が契約当初塩那電気へ納入した金と同額を新加入者に納入するよう求めている。この他、組合員の入会・脱退、電灯数の増減、発動機使用についてなどが記され、大谷の共同事業としての位置付けがみられた。
 それから、一〇年後の一二年に上高根沢でも電灯の導入が見られ、この時の収支決算書には住民からの寄付金四七名分七六五円七〇銭の収入に対して、電灯会社への納入金二九九円二三銭、電柱(八一本)代三〇〇円、松丸太(一〇七本)代三〇円などの支出がみられた。一二年三月一七日、電灯工事は竣工し、その日の夕刻より点火され、二日後の一九日点灯祝賀会が開催された(史料編Ⅲ・五二一頁~)。
 なお、下宝積寺に電灯が灯ったのは大正一三年といわれる。

図87 上高根沢の電燈寄付名簿(上高根沢 阿久津恵一家蔵)