ところが大正期に入ると明治末期からの地方改良運動が町村により具体化され、町村是という町村の行政目標が設定されていった。大正四年(一九一五)の「県告諭」に始まる栃木県における町村是制定運動は大正天皇の即位記念事業として企画され新たな展開を見せた。同年一〇月七日、北川信從知事は栃木県告諭第一号で第一次世界大戦の交戦国として「今や挙国一致覚悟、奮起国力ノ充実ヲ図ラザルベカラザル秋」とし、不急の事業は慎しみ、「宜ク民情ニ照シ資力ニ鑑ミ将来嚮フベキ町村是ヲ確立」することを「刻下ノ急務」として訴えた。さらに「地方経営ノ根基タル町村是ヲ確立実行スル」は天皇即位の大典を永遠に記念するもので「町村ハ須ラク一斉ニ町村是ヲ制定実行シ地方振興ノ実ヲ挙グル」ように述べている。同時に制定の方針や調査機関の組織と注意事項及び民力充実、教育進歩、風俗改良、健康増進、自治興隆などの各項目に具体的改良事項を掲げて作例をもつけた『町村是制定ノ綱要』を配布した。これにより各市町村はいっせいに「是」の制定に着手した。最初は大正五年に制定され、大正九年までを第一期とし、大正一〇年再び告諭を発し、大正一五年までの第二期の町村是の制定と実行を求めていた。この間に指導的役割を果たした郡役所が廃止されて運動は自然消滅のケースが多くみられた。しかし大正一五年、第三期として運動が展開された。第一期に県が各町村へ提示した項目は次のようである。
一、民力ノ充実ヲ図ルコト
二、教育ノ進歩ヲ図ルコト
三、風俗ノ改良ヲ図ルコト
四、健康ノ増進ヲ図ルコト
五、自治ノ興隆ヲ図ルコト
これに基づいて各町村毎に項目の具体化をはかり、細目をきめて実施に移していった。
熟田村の村是は県の項目にそってつくられたが、村是の緒言に、村是制定の趣旨は「村ノ状勢ヲ審ニシ適当ナル方策ヲ決定スルニアレドモ、其村ノ状勢ヲ審ニスル方法ニ至リテハ敢テ形式に拘泥スベキモノニアラズ」と一期計画は項目ではなく村の実状にそった実行細目を主にあげている。
民力の充実に当たる部門は、一、米麦の改良増収を図ること、二、産業組合の振興を図り、または其他の方法に依り勤倹貯蓄、生産物の共同販売、資金の流通を行う、となっている。教育の進歩を図ることについては、尊師の美徳を養成し以て学校校舎の改善完備を期すとし、一、高等科の併置を急務とし、二、不就学者を督励し欠席児童を少なくすること、三、教育の普及を図るため学齢児童保護会を組織すること、四、実業教育の普及などがあげられている。風俗の改良に当たる部門としては、一、太陽暦の実行、二、冠婚葬祭、入退営に際して奢侈の弊風を矯正する二項である。健康増進では、清潔法の完全施行で、形式にとらわれず実行にあたることがあげられている。次に人口の増加の対策の一つとして村の避病院の附近に村火葬場を設置することがあげられている。自治の興隆については、一、村吏員を優遇すること、二、公の会議は時間厳守とすること、三、村基本財産の増殖を図ること、四、選挙権は尊重すべきもので、自ら信頼すべき者を選挙すべきこと、これらの実行により村の発展充実を図ることにした。この運動は一応、大正九年をもって第一期として終了した。
図1 村是通知の記事(石末 加藤智久家蔵)