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米騒動と町域

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 第一次世界大戦が勃発すると、下落していた米価は大正四年(一九一五)ごろから上向きに転じ、七年のシベリア出兵を契機に急速に上昇した。大阪堂島の中米相場(玄米)は、大正六年一月はじめ一石一五円が翌七年の七月には三〇円台にまで上がり、社会不安は募る一方であった。
 米騒動の不穏な動きは、七月末ごろ富山県の魚津町で漁民の女房たちが、井戸端会議で米価が上ってやりきれないと話しあい、七月二三日に漁民らが北海道向けの米の積出しを中止させたところから始まった。騒動は近くの町々に拡がり八月四日には富山県滑川町に波及した。滑川町の漁民の女房数百人は四日から六日にかけて、米屋や資本家へ押しかけ米の安売りを要求した。この動きは「越中女一揆」の記事で全国新聞に報道された。騒動は八月一〇日に京都と名古屋に飛び火し、やがて全国へと広まった。
 北高根沢村の隣村である南高根村芳志戸の加藤家の日記には次のように記されている。
 
  八月七日 白米一升五〇銭ニ暴動、富山県滑川町米騒動起ル、全国的ニ拡大、軍隊出動、遂ニ寺内内閣瓦解ス、
  二〇日 救助米廉売始め、岡田与左衛門金二〇円、螺良源右衛門金一円也、区長赤羽富三郎宅ニテ配布
  南京米(麻袋入、大粒種石油臭シ)初メテ試食ス
 
 栃木県では県民一般、特に細民階級はもちろん「下級官吏その他一般に定額の俸給生活をなせる者らの困窮は、実に名状すべからざるものあり」「此の状況にして永続せんか、如何なる恐るべき結果を招来せずとも限らず」と「東京日日新聞]は、最大級の形容で事態の急迫を警告している(井上清・渡部徹著『米騒動の研究』第三巻三八七頁)。この危険な状況下にあっても、結果は予想以上平穏な方向であった。しかし、「第一四師団司令部の所在地の関係が影響しているためか、騒動には及ばなかったが、辻々で号外をかこんでいる群衆にも、危険な殺気が感じられた。」(手塚富雄著『一青年の思想の歩み』)というように表面的な平穏さであった。
 県の町村長は会合をもち「米価騰貴救済方法協定」をたて八月二〇日までに救済方法として米の廉売計画を立てることとした。内容は、
 
  一、販売ハ遅クモ本月二三日マデニ実施スル
  一、廉売人員、施米人員概数ハ大体戸数等級ニヨリ実況ヲ視察ノ上決定スル
  一、義捐金ハ戸数等級中等以上ニアル者ヨリ醵集スルコト
  一、販売価格ハ内地米一升二五銭、外米一升
 
 一五銭で一人一日の販売量は大小人に拘らず平均三合としている(『栃木県史』史料編近現代三・一八四頁)。北高根沢村では八月一九日、村長は区長あてに今回の米価暴騰の窮乏救済にあたって御内帑金三〇〇万円が下賜されたことをのべた。栃木県には五万一〇〇〇円が配分され、県下町村に分配された。北高根沢村では四〇三円八八銭の下賜金があった。ここで廉価販売、其の他適切の方法で緊急救済の相談を行うため八月二〇日に集合するよう通知している。九月以後各小学校で廉売を開始し、施米及び廉売を一人四合五勺、約一六石を配布し、これに村の有志者の寄付金三七六円二五銭で外国米を購入し、約四四石を村内居住者に廉売した(史料編Ⅲ・一二頁)。高根沢町域内では米産地ということもあって米価騰貴による経済的危機の様相はみられず平静さが保持された。

図2 米価高騰について区長あて通知(大字上高根沢蔵)