宇都宮第一四師団は大正八年(一九一九)三月、第一二師団に代わってシベリアへ派遣されることになり四月八日から二六日にかけて宇都宮を出発した。国内は米騒動の嵐もおさまらない厳しい生活苦のなかの出兵は、送る家族にも送られる兵士たちにも何かさえない雰囲気がただよっていた。
青森港からウラジオストックに向かった兵士たちの一人アムール河守備隊の関 静は菅又 薫への便りのなかで夜は眠らず警備にあたり「実砲百弐十発宛携行、腰のあたりは重く随分苦労し」と述べ、ついで来る冬に備え防寒準備に兵舎の修理に忙殺されていると書いており、経験のないシベリアの厳寒にそなえている厳しさを知らせている(史料編Ⅲ・二二五頁)。
出征兵士に対する「慰問袋」を送る動きは各地にひろがっていたが、北高根沢村長は大正八年一二月二六日付で在郷軍人分会役員、青年団支部長宛に「西伯利亜出兵軍に対する慰問袋」の件について連絡をしている。それによると慰問袋一袋の価格は八〇銭を標準とし、割当個数は五個となっている。慰問品の内容は伝記本、講談本などと他に絵葉書、封筒、巻紙などの通信材料、薬類は清心丹、仁丹、宝丹など、お守札、特に新聞、手紙などは最もよろこばれるとしている。
大正九年になると、戦病死者の訃報が伝えられるようになり、また北高根沢村では第一四師団が派遣した兵の交代に際して、歓迎会や送別会がもたれた。大正一〇年一一月一五日の軍人会班長会議で「西伯利亜方面ニ出動シ今月末除隊セントスル軍人ノ広漠タル野ニ露軍ト戦ヒ寒暑二耐へ当二専心万苦セラレタル労ヲ慰スル目的」でシベリア出動から除隊する八名の歓迎会と一〇年に入営する現役者三二名の送別・激励会を計画し、会費一円で参加者を募集した。この会は一一月二七日午後一時から北高根沢尋常高等小学校で盛大に行われた。
図3 第14師団シベリア出兵の絵葉書(宇都宮市 大町雅美蔵)
図4 シベリア出兵兵士への慰問袋作成について(大字上高根沢蔵)