石末の野沢家の「日誌」(著者野沢茂堯)には九月一日当時の様子を「一二時雨少々降る、野沢喜代太君預金の為め銀行に来た時に一時驚くが如き大地震あり、……菊地馬吉君、野中進君は金庫の戸を閉めんとせしが動揺甚しく非常なる困難のもとに遂に閉つ、地震は止み又起る事数え切れず、凡十数回ならむと覚へたり、ために目眩し五時頃まで気分よからず、時々猛雨あり、地震再び到る」と、記している。
九月一日夕方、政府は避難民の群集心理を警戒して警察、軍隊によって各地の警戒にあたらせた。翌二日になると「不逞鮮人」が震災を利用して各地に放火するといった流言蜚語が各地方に伝えられた。栃木県内にも噂はすぐに伝わり朝鮮人が宇都宮にも到着するというので巡査や消防団が非常線を張った。用事で宇都宮へ行っていた野沢茂堯は宇都宮駅で避難民の救助や「不逞鮮人」を捕えて混雑している状況を見ている。九月四日には「不逞鮮人」が逃げているので警戒せよとの通報が続々来る状況であった。宝積寺駅には青年団と在郷軍人会員か集められ炊出しと湯茶の準備をした。午後からは避難民を満載した列車が到着しはじめ、夕方には朝鮮人二名を捕え喜連川へ護送したという(史料編Ⅲ・二三三頁)。九月六日付の「下野新聞」には朝鮮人で殺害されたものは本県で五名と報道されたが、最終的には六名と報告している。
また宇都宮地方裁判所より平沼司法大臣宛九月八日発の公信によれば、「栃木県下に於ては鮮人に対する民心の激昂甚しく震災後今日まで民衆により鮮人の殺されたるもの六名、重傷者二名、軽傷者一五名、支那人にして鮮人と誤って殺害せられたるもの二名、重傷者四名、軽傷一一名」となっている(『現代史資料6関東大震災と朝鮮人』二五七頁)。また金丸ケ原陸軍廠舎には埼玉、栃木両県下各警察署等において保護中の朝鮮人四七一名が九月一八日までに収容された。第一四師団より歩兵一中隊が派遣され地方警官と協力してその保護及び警備に当たった。
宝積寺駅付近は列車を利用しての朝鮮人移動が報道され、九月五日も「時々鮮人騒ぎあり」といった記事がみられ、また烏山の岩田某の倉庫より朝鮮人によりダイナマイト一四箱が窃盗されたとの号外も出て人心を驚かせた。その後、六日にも「三時列車にて鮮人見遁したり」といった記事もみられたが、しだいにおちつきをとりもどした。八日ごろには朝鮮人保護の命令も出て、警戒人員減少の必要ありとして消防員の減少の交渉もあり、高根沢町域も朝鮮人の不安問題は消えていった。
図5 震災避難民の救済についての大字大谷議事録(大谷 高龗神社氏子会蔵)