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震災地救助

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 関東大震災後、地方はくわしい情報がわからず、宝積寺駅は避難民の到着で混雑していたが、救援体制はまだとられていなかった。九月四日早朝に役場では村長、助役、在郷軍人会長らが救護の方法を協議し、その日より在郷軍人会、青年団の出動をうながすことになり各家庭に急報した。青年団、軍人会員らは宝積寺駅前に集合し、炊出し及び湯茶の準備を一一時ごろまでに終了し待っている所へ「午後より避難民潮の如く殺到す、或は車上に乗り、或は車外に垂れ、実に満員の状態」で避難民が到着し、駅付近はその接待で混雑した。また郡の命令で阿久津義実を団長として山口郡書記の引率で青年団員三〇名が上京した。五日は中阿久津青年団が救援活動に当たり、六日は朝から夕方まで宝積寺、七日夕から八日朝は石末南部と各青年団が交代で活躍した。五日からは東京へ出動する第二師団(仙台)兵を乗せた列車が次々と通過した。列車に積んであった貨物は殆んど救済品であった。六日からは出動する兵士の活動を敏速にするため、昼食、夕食を提供することになり各大字より米を二斗ずつ集め、炊き出しには処女会員が出動した。
 避難民の救済については大谷地区では六日協議会を開き、次のように決定した。
 
  一、一戸ニ付白米一升位ヲ集メ寄贈スル事
  一、各組総代協議員ハ世話係トナリ荷造り迄スル事
  一、区長之ヲ発送スル事
     寄付米内訳
   天沼組  二俵
   東組   一俵六升
   西大谷組 二斗五升九合
   宮下組  二斗五升
   関場組  二斗二升
 
 計、白米四斗入五俵を協議当日、大谷有志一同の名儀で宝積寺駅より発送した。
 野沢は駅での避難民の応待、救援隊の準備で六日の晩は一睡もせず仕事に忙殺された。七日には八木沢小隊長、高塩副小隊長らは上京、その時ですら乗車の際の混雑は言語に絶するという状況であった。七日の夜は避難民の病人を宝石館及び酔月に宿泊させた。各字の処女会員らは酒田女教員が主任となり交代で連日炊出しに活躍している。処女会の活動は一〇日と一一日で打ち切ることになり、救助活動も一段落を遂げたとみられる。以後震災地援助は義捐金を募集する方向へと変わっていった。一〇月一日大谷の協議会では義捐金の配当額が二八三円に決められ、一一月五日には義捐金の寄付は出来る限り有志者より募り、寄付金額は各組総代がとりまとめ七日までに区長に報告することにしたが予定額に達せず一〇日に再度協議の結果、大字大谷の予定額二八三円を必ず募集することと一層の努力を確約した。
 大正一三年八月二九日大字大谷の組総代は会議を開き、次のようなことを可決した。
 
  一、九月一日大震災記念日トシテ毎年コレヲ実行スル
  一、朝食ハ玄米飯ヲ食シ、一家挙ツテ田稗抜取ヲナシ、午後ハ各自業ヲ休ミ、大震火災死者ノ為メ禁酒シ追悼ノ誠意ヲ表スル事
 
 この日は今日でも「防災の日」としてうけつがれている。