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大正期末の村

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 明治末から大正にかけて国内は第三次桂太郎内閣時代に噴出した憲政擁護運動で政界は大きく動いた。大正期には人々のさまざまな動きが社会の表面にうかびあがり、第一次世界大戦を通して米騒動のような貧困と差別の問題や都市と農村の矛盾が一挙に吹き出した。
 阿久津村の大谷地区では、すでに明治二四年(一八九一)に「大谷申合規約」を作り、大字全体に関する村内相互の生活規約を二七か条にわたり作成した。大要は生木、落葉を取るために他人所有地へ立入ることの禁止、家屋の新築、修繕等についての協力関係、用水の水切問題等々であった。その後、時代の変化に伴い大正一四年一月に増補改正し、一、集会及び組織、二、祝日及冠婚葬祭、三、違反取締、四、財務、五、衛生及消防、六、雑ノ部と大別し四七条の規約を作成している。特に時代を反映して祝日冠婚葬祭には簡素、質素、倹約を強く訴えた。例えば旧正月には一切松飾を行わないこと、新たに加わったものには入退営者の場合、送迎会は一切開かず、入営者一人に対し一戸金一〇銭を徴収して贈呈すること。ただし、入退営兵は鎮守において奉告祭を行い、入営者に対しては駅まで送り、退営者には駅まで迎え奉告祭執行終了と同時に解散するとなっている。特に関東大震災を経験したことで、あらたに九月一日を大震災記念日とすることがきめられた。
 大正期にあって米騒動に続く関東大震災は財界不況をもたらし、寄生地主制下での農村における生産の停滞などにより都市への人口流入が大きな社会問題になった。都市における失業者の増加、さらに冬期における地方より都市に集中する季節的出稼者の増加で、都市へ行っても仕事がなく生活困難に陥るおそれが生じてきた。大谷区長は大正一四年一〇月組総代に出稼ぎ防止と社交の弊風改善について、県からの通達を伝えている。通達は横浜、横須賀、東京への出稼者は極めて困難な生活で、就職の道も得られず「或は悪紹介者の手先にかかり悲惨なる状勢にあり」とのべている。弊風改善に関しては村是実行の上、特に年末年始を迎えるに当り、勤倹奨励、貯蓄強調を訴え、節酒、集会時間の厳守、借金して買物する悪習を廃することなど一八項目をかかげ健全な村落を目指していた。
 この頃阿久津村では地方改良運動、村是運動以来の課題である村の融和と統合を強めるため積極的に社会教育面に力を入れていた。そして大正一〇年(一九二一)従来大字、坪別に組織されていた青年会を合併して阿久津村青年会を創設した。同じように処女会も八月一〇日、阿久津尋常高等小学校で発会式を挙げた。村は各方面から村の健全化にあたっていった。

図6 大正末期の田植風景(大谷 阿久津純一提供)