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大正より昭和へ

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 大正一五年一二月二四日宮内省は病気療養中の大正天皇の容体を発表した。
 
  二三日午後一二時、体温三八・三、脈一二〇、呼吸三一、二四日午前六時、体温三八・四、脈一二四、呼吸三三、二四日午後八時、体温三八・六、脈一二四、呼吸三三、脚下肢の御浮腫漸次御増加があらせられ、御疲労も亦加わさる。
 
 間もなく翌二五日大正天皇崩御の報が伝えられた。新聞には黒枠のなかに「諒闇中の心得」が記されている。主なものは「恐懼謹慎すべきこと」「歌舞音楽その他、楽しく賑わしきことを避けること」「女子は髪飾をしないこと」「黒布を左腕にし国忌に服すること」「弔旗を掲げること」などであった。
 阿久津村長野沢辰之助は一二月二五日に区長あてに次のような号外を出した。
 
  大行天皇(注、天皇の死後、まだ謚の贈られない間の呼称)御崩御御遊サレタルニヨリ摂政殿下ニハ茲ニ人皇百二十四代ノ帝位ヲ継承シ給ワレ、本日ヨリ年号ヲ昭和元年ト改元致サレ侯条、其筋ヨリ通達コレ有リ侯ニ付宇内一般ヘ御示達相成度命ニ依リ通達侯也
 
 と天皇の死と共に新たな年号が公にされたことを連絡している。これを受け大谷区長阿久津勝弥は組総代に歌舞音曲を取りやめるほか、次のような内容を通知している。
 
  一、学校トシテハ四方拝御遠慮ノ由聞及侯
  一、門松、七五三飾等ハ廃止スル
  一、高龗神社ノ大祓、川ビタリ大祓付モ遠慮、日待等モ遠慮スルコト
 
 その他、虚礼にわたる冗費はできるだけお互い慎しむようにとのものであった。
 昭和天皇は一二月二八日文武百官を集め勅語を与えた。大谷地区では翌昭和二年一月一日分教場で下賜された勅語奉読式があり、字区長選挙に当たっても諒闇中は努めて謹慎の意を示し、字内の平和円満のため競争らしきことのないよう話し合いがもたれた。二月七日の大葬遥拝式は阿久津村併置校庭で行われ、新たな昭和時代が歩み出した。しかし、震災以来経済は低迷のまま昭和期を迎えた。大正一五年の「阿久津村事務報告書」には「村農会ト連絡ヲトリ農事改良ニ副業奨励ニ力ヲ致セドモ、未ダ改良ノ余地多大ナルヲ遺憾トス、殊ニ現時農村ノ疲弊困憊其ノ極ニ達スル折、副業奨励ハ是レヲ救済スルノ一途ナルヲ信シ倍ノ力ヲ注キ奨励シツヽアリ」(『高根沢町史資料集』)と農村の苦しみを伝えている。不況は不況を生み、昭和二年三月、有力銀行の休業が続き、金融恐慌がはじまった。政界では民政党の若槻礼次郎内閣の総辞職と不気味さをました昭和の幕あけとなった。

図7 大正天皇崩御の区長あて通知(大谷 高龗神社氏子会蔵)