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御即位の大礼

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 昭和の第一歩は大正天皇の薨去のあとの諒闇の期間であった。昭和三年一一月一日の即位の式までの約二年間、わが国は政治、経済両面からの危機的状況下におかれた。昭和二年(一九二七)三月、震災手形の処理をめぐって一部銀行の経営悪化が表面化し金融恐慌がおこり、鈴木商店も破産に瀕した。若槻内閣は鈴木商店に巨額の融資を行っていた台湾銀行を救済するため枢密院に対策を図ったが、否決され総辞職した。代わった政友会の田中義一内閣は支払猶予令と日本銀行の非常貸し出しにより恐慌を鎮圧させた。一方で、田中内閣は恐慌収拾のあと中国問題への「積極外交」を唱え、外交に新たな問題を誘発させた。続く三年には満州事変の原因にもなった張作霖の爆死事件と不安な危機がしのびよってきた。
 経済不況は農村に深刻な影響を及ぼし、戦後不況から昭和恐慌の過程で地主層の資産が目減りし、農村社会における地主層の地位を不安定なものにした。伝統的な支配秩序も崩壊の危機に瀕している時、農本主義が唱えられ、伝統的農村の再編強化が主張された。
 栃木県でも農村再建のため昭和二年農事実行組合計画がたてられ、別府知事は「農村振興の第一歩は農業経営の協力化、組織化であるとし」その達成のため、農村内に一小集団を作ることで隣保互助、共存共栄の精神で農村共同体の建設を主張した。阿久津村大字大谷では、昭和三年五月の会合で「実行組合設立ニ関シテハ各坪総代ノ努力ヨリ各坪共組合組織セラレ」(史料編Ⅲ・二六一頁)たと報告された。具体的には西大谷坪で三組合、天沼坪で五組合、東坪三組合、宮下坪四組合が設立され、それぞれ組合長がえらばれ、その後の組合長会議では「正条植ノ一割可否」、「移植ノ方法」などが協議された。
 昭和四年(一九二九)の「阿久津村事務報告」には勧業として「村農会と連絡をとり、大字内に農事実行組合をして隣保互助、共同同栄の精神を涵養し、結束強固なる団体を組織し、農事の改良をなし、必要なる施設経営を行い、生産増加の方法を研究し、冗費を省き、農家経済の充実安定を図り、現時農村の疲弊困憊其の極に達する折、副業奨励には製叺副業組合、蔬菜出荷組合を組織すること」などが記されている(『高根沢町史資料集』四二頁)。
 昭和三年、一年間の諒闇がとけて一一月一日新天皇の即位式が京都で行われた。田中義一内閣が一一か月の準備期間を経、一、六〇〇万円の経費をかけての、壮大な即位式である。阿久津村も阿久津村併置校で午後三時を期して万歳を唱え、即位を祝福した。上高根沢青年支部並びに処女会支部は大典記念に一一月三日敬老会を挙行した。青年団日誌は当時の状況を、
 
 「我等国民ノ待チニ奉ル、今上陛下御即位ノ御大礼ハ愈々菊カホル本月ヲ以テ京都皇宮ニ於テ厳カニ行ナハセラレマス、誠ニ国ヲ挙ゲテ寿キ奉ルベキ御儀式ニテ万人ノヒトシク万歳奉唱致ス次第デアリマス」(昭和二年『沿革史及日誌』中部青年会)
 
 と述べている。その夜、東京では提灯行列がつづいたという。この華やかな雰囲気も一時の花火と化し、翌年はさらに厳しい経済不況の中におちこんでいった。