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生産検査と移出検査

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 鉄道の発達により野州米と新潟・宮城・山形産米などとの市場での競争が激しくなり、この競争に勝ち抜くために農会を中心に農事改良が進められてきたことは前章で述べた。明治後期になると農会や米の大量販売者である地主、米穀商の間には、野州米の声価を高め安定した需要を得るためには米の検査をして、品質に客観的な基準をつくらなければならないという考えが強くなった。その背景には農事改良を勧めるだけでは米の品質の改善に直結せず、市場では野州米の銘柄での取引が難しく、上質の野州米は俵装を他県米のように仕直して売るという現実があったという(『検査十年の野州米』栃木県穀物検査所・大正九年)。
 明治四〇年一月県は「米穀改良調査委員会」をつくって米穀検査の実施方法の研究をし、農会、宇都宮・栃木両商業会議所などの賛同を得て四三年九月一日から県の事業として米の品質、俵装の検査を実施することになった。同年二月の知事「告諭」は次のように述べている。
 
  (前略)本県産米は主として調整及乾燥の不充分なると俵装の粗雑なるとにより所謂劣等米として市場の擯斥を受けつつあり。将来これらの点に於いて改善を致さば其の利益けだし莫大なるべきを疑わず(中略)。故を以て本県は本年秋期より産米及輸出米の検査を実施し、大いに之が改善を期せんとす。当業者は宜しく此の意を体し耕種肥培、田稗の抜取、病虫害の防除、乾燥、調整及俵装等の改善に努め以て米穀改良の必成を計らざるべからず(後略)(同前書)
 
 こうして九月から検査が始まった。検査機関として県庁内に米穀検査所をおき、市町村にその派出所をおいて生産検査員一名が配置された。ここで行う生産検査で合格と不合格を決めた。県下の各停車場には出張所をおいて移出検査を行ったが、氏家と宝積寺の出張所には各三名の移出検査員が配置された。ここの移出検査で一等から三等と等外の四階級の区分を決めたが、大正四年からは五等までとして区分を六階級にした。不合格米と等外米の県外移出は避けたかったが、安い米に対する都市や製糸・紡績工場などの需要も多かったから、この後も移出は続けられた。
 米の生産検査の内容については「産米検査程度」(史料編Ⅲ・七六二頁)という通知が、米穀検査所から村産米検査員を通して各農家へあった。要約すると次のようだった。
 
  ○不合格  乾燥不良、一合に付赤米一〇粒以上混入、青米一五粒以上混入、田稗混入
  ○再調整  一合に付籾一〇粒以上混入、粃(しいな)、砕米混入、俵装不適
  ○俵装   越年し乾燥したスグリ藁を使って俵をつくる
     内俵 重量六五〇~七五〇匁、封数六〇~七〇封、編み上り三尺七寸以上、横繩・かがり縄共一寸以上のもの
     棧俵 重量九〇~一二〇匁
 
 これはかなり厳しい検査基準だったようで、合格米を出すには選種、苗代造り、田植え後の除草・肥培管理、乾燥、脱穀調整、俵造りと生産から出荷までの全過程について改善が必要だった。

図8 米の調整作業
手前は千石どおし、奥は摺臼(大谷 阿久津純一提供)