村の地主や自作農家は農作業や家事に年季奉公人や日雇いの農夫を沢山使っていた。年季奉公人には同じ村内や近くの村の農家の子女がなる場合と東北・北陸地方から働きにくる場合があった。前者の場合は普通の契約期間は一年で、契約と同時に給金の七割から九割程度は前借金として親に渡されていた。奉公人は衣類として山着、野良襦袢、股引、手差しなどは支給されたが、小遣いは残りの給金のなかから借りて使っていた。春や秋の祭り、芝居興行の時などは給金とは別に小遣いを与える家もあった。契約書には年季中に本人が病気や事故で働けない時は保証人(親、親戚)が引受け、金で弁済するか、代わりの人を出すことが決められている。奉公人の普段の仕事は農事、夜なべの縄ない、農閑期には落葉浚い、薪採り、笹刈りなどであった。
篤農家の地主、自作農のところでは農作業ばかりでなく、かなり専門的な農業知識を学ぶことも出来たようで、農事見習いに近い奉公人もいた。一人前の農民になる修行として年季奉公に行き、家へ戻る者もあった。上高根沢の宇津家のように、農事奉公人として雇われたが、人柄や能力を見込まれて地主の農場の管理を任され、やがて、土地と営農資金を与えられて独立した農民もあった。
東北・北陸地方から働きに来る奉公人たちは比較的長い年季の場合が多かった。彼らは口入屋や周旋人の手を通してくるのが普通であった。福島県のある周旋人は村内の地主に「私も明六月にあいなり候はば、男女の子沢山連れ参り候ゆえ、その節外の方にも御手配下されたく」(史料編Ⅲ・五八八頁)と連れてくる子供たちの雇主を世話してくれるよう頼んでいる。雇う側の注文は一五、六歳の男女が多かったが、連れられて来る子は小学校を卒業したばかりの一二、三歳の子もいて、時には実際の歳を隠して来る一〇歳前後の子もいたようである。この子らは五、六年から八、九年の年季で、男子は徴兵検査まで、女子は嫁入りまで働くのが普通だった。給金の大部分が前借されて親に渡され、小遣いと仕着せで暮らさなければならなかった。病気で長く休むとき、失踪したりしたときは保証人や口入人が責任をとることが契約されていた。少年・少女で働きに来て、多感な青年期までを過ごすので家出をする者もあり、逃亡してしまう者もあって、雇う方も苦労があったようである。気心が知れて親しくなり、帰郷後も親戚付き合いをしている場合もあるし、兄が勤めた家へ弟や妹が来る場合もあった。働いている間に見初められて村内へ嫁入りした場合もあった。このような東北・北陸からの年季奉公人は那須郡から芳賀郡にかけて多かったが、上都賀郡では農会が農雇の希望を集めて、新潟の農会の斡旋で奉公人を受け入れていた。
日雇いの農夫(婦)には村内の農家や小作人が来る場合が多かった。栗ヶ島の渡辺章一家の「雇人給料内渡簿」(明治三八年度)で見ると、日雇いで働いている農夫の一人は税金・肥料代と借金の計九円一六銭五厘を返済するため、田植え(六人手間、一人三〇銭)、田の草取り三日で三人手間、其他の農事五人手間で計四円一〇銭分を借金から差し引いて貰っている。こうした日傭の働き方は他の自作や地主の家でも普通に見られ、少ない借金を働いて返すことは小作人にも便利な方法だった。