耕地整理の設計書で整理で得られる利益を見ると次のようである。
ア これまでは凹凸が激しく区画が狭く、各人の所有地が入り組んでいて耕作、灌漑・排水、運搬の便が悪かった。それで交換分合により田一枚を一反五畝歩(実際は水田平均一反三畝一七歩、畑一反六畝一八歩)にし、どの田にも用水路及び耕作路をつけて牛馬耕ができるようにするので耕作は便利になり、労賃も減らすことができる
イ これまでは用排水路の配置、勾配が悪く湿田で生産力が低かったが、暗渠排水をして乾田にするので土壌は理化学的に良好の状態になる。それで地力が強くなり二毛作が出来るようになるので生産力は倍増する
この耕地整理の経費は四、六一五円二五銭、内五か年賦償還借入金三、三〇〇円で二、〇〇〇円は(年利一割)、一、三〇〇円は(年利一割一分)で見目清から借り入れた。残りの一、三一九円二五銭は増歩地の売却代と小作料で賄っている。一反歩当たり経費二五円であったが、借入金の償還分が五年間に一反当たり二三円八五銭となっていた。耕地整理前と整理後の対象地の地種、面積を比較すると左のようである。
対象地の地種と面積 整理完了の結果
田 一二町三反五畝 七歩 一七町〇反九畝二九歩(内畦畔二反七畝一九歩)
畑 八畝 七歩 三反一畝一七歩
宅地 二反四畝 二歩 一町〇反一畝 九歩
山林 三町九反九畝二二歩 ―
原野 二反二畝 一歩 ―
小計一六町八反九畝 九歩 一八町四反二畝二五歩
(地価 一、六九八円二一銭、 一、八一四円二三銭、差引一一六円二銭増)
道路 八反一畝歩、 七反一畝 三歩
溝渠 一町五反四畝一五歩 七反一畝一一歩
堤塘 三畝二〇歩 一反一畝二七歩
荒蕪地 五畝一五歩 ―
小計 二町四反四畝二〇歩 一町五反四畝一一歩
計一九町三反三畝二九歩 一九町九反七畝 六歩
差引 国有地は九反九歩減り、民有地が一町五反三畝一六歩増加している。
この耕地整理地区の地主には宇津権右衛門、見目清、加藤太平ら大地主をはじめ赤羽宥松、佐間田藤十郎、阿久津金次郎、小堀勝造らの地元有力者が参加していて、上高根沢の最初の地主共同の耕地整理にふさわしい顔ぶれであった。
明治期の耕地整理はこの後、熟田村四地区・二九一町余歩、北高根沢村三地区・一六一町余歩、阿久津村二地区・三三町余歩で実施された。これらの事業の成功と明治四〇年代から大正中期へかけての米価騰貴の波にのって土地への生産的投資の好条件が整い町域の耕地整理は急速にひろがっていった。
図16 大正初めの伏久・文挾耕地整理記念碑(文挾地内)