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昭和初期の耕地整理

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 大正末期から昭和初めは第一次大戦の戦後不況に続く関東大震災(大正一二年)、金融恐慌、昭和四年(一九二九)からの世界大恐慌の国内波及と不況が打ち続き、農村も農業恐慌のなかに沈んでいった。しかし、この不況期にも耕地整理は続けられた。昭和二年から一〇年までの期間、二二の耕地整理事業が行われたが、内八か所は地主の個人施行であった。熟田村六か所、北高根沢村二か所である。また、極めて小規模なものが多く、一〇町歩以上の面積を施行したのは鈴木峰三郎が組合長で実施した前記の二か所計一六九町歩と藤原村が下野産業銀行倒産のとき阿久津徳重から得た農地一〇町歩余だけである。
 高根沢地域は阿久津村の中阿久津、宝積寺、石末を除いてこの時期までに水田の約九〇パーセント程度の耕地整理を終えて、用排水路、農道も整い乾田化が実現した。そして昭和一〇年には水田反収平均も阿久津村一石九斗四升、熟田村二石八升、北高根沢村一石七斗ほどに上昇している(『栃木県耕地事業一覧』栃木県耕地協会・昭和一一年)。

図19 鈴木峯三郎
第14代熟田村長(大正15~昭和6)耕地整理にも活躍(飯室 鈴木俊子提供)