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宝積寺駅と自動車輸送

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 宝積寺駅の開設により、各地方都市との交通路が整備され、旅客や物資の輸送が行われるようになる。特に烏山・宝積寺間は、荷馬車による物資輸送が頻繁に行われ、常時一〇〇台余の荷馬車が往き来していた。烏山までの所要時間は、片道約五時間はかかったという。荷の積み降ろしに約三時間を要したため、烏山を午前五時ごろに出て、宝積寺駅に一〇時ごろ到着し、荷の積み降ろしをして烏山に戻るころは、午後七時か八時となった。烏山からの荷物は、炭・木材・たばこ・和紙・米・麦類で、炭が六割を占めていた。一方、宝積寺からの荷物は、肥料・砂糖・醬油・塩・魚類・衣料・雑貨で、中でも多いのは肥料であった。一台の荷物の重さは二六〇貫で約一トン程度であった。この一往復で四円五〇銭から五円くらいの収入であった(『烏山町誌』)。
 こうした馬車輸送から大正期に入ると徐々に自動車輸送へと移行してゆく。大正元年一二月に、宝積寺―烏山間の自動車運転が出願された。これは、河内郡明治村の藤沼直次郎と城山村の渡辺九郎の二名によるもので、旅客及び貨物輸送を目的とした。台数は客車貨車各一両ずつで営業する予定で、これが許可されれば、今までの馬車による輸送と競合して、料金も割引となり、利用者にとっては便利となるであろうと、「下野新聞」は報じている。
 宝積寺駅の自動車による構内営業は、大正六年九月二六日に烏山町の下野自動車株式会社が乗合自動車二台の許可を得て営業を開始した。さらに、八年一一月六日には同じ烏山町の烏山自動車合資会社が構内営業の許可を得て、乗合自動車三台を使い営業を始め、ともに烏山への旅客輸送が開始された。しかし、一二年四月一五日に烏山線が開通すると、鉄道には太刀打ちできず、下野自動車株式会社・烏山自動車合資会社ともに五月には廃止願いが出され、営業が取り止められた。同じ一二年北高根沢村太田の加藤太平により乗合馬車三台による構内営業許可願が出され、その年の一二月に許可(昭和二年三月二四日営業廃止)された。
 加藤太平による乗合馬車の営業が廃止された二年の五月に、河内郡古里村中岡本の釜井真一郎により乗合自動車二両による営業が開始され、翌年には一両が増車された。五年には宝積寺―北高根沢村桑窪間に路線が変更された。この他、阿久津村宝積寺の黒崎市郎による貸切自動車の営業が五年一月に開始されている。このように、宝積寺駅の開設により、近隣への旅客輸送は人力車を含めて自動車による交通網が発達した。当初、栃木県東部の中心的存在であった烏山への自動車営業は、烏山線の開通により姿を消すが、その後も宇都宮や近隣への旅客輸送は盛んに行われていった。

図23 自動車運転出願の記事(「下野新聞」大正元年12月20日)