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常野鉄道の計画と挫折

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 烏山町の島崎善平が出した常野鉄道の創立願いを見ると、その主な内容は次のようなものである。「鉄道は水戸鉄道の川島駅より分かれて、久下田・真岡・益子を通り烏山・馬頭町を経て茨城県大子町に至る路線を計画し、この間を二区に分け、川島から烏山を一区とし大子までを二区にし、まずその第一区に鉄道を敷設する」というのである。これによると八溝山塊に沿った諸町村を結び、各地域の諸物産と人の運輸を行おうとするものであった。資本金は五五万円で計画された。駅は真岡より北は益子・市羽・続谷で、これより荒川を渡って烏山に達するもので、烏山にとっては発展の道筋が開けたと思われた。
 その後、県知事は逓信大臣に免許願いを提出しているが、そこには芳賀・塩谷・那須三郡、さらに久慈郡の産物である紙・煙草・陶器・薪炭の運送に便利であるという内容がもられていた。この計画は明治三一年六月に免許がおり明治三二年九月一〇日に起工式も行われたが「経済界不振のため株金の払込全きを得ず」という理由で事業は中止になった。このようにして烏山町の鉄道にかけた希望は一時頓挫した。

図24 常野鉄道の起工についての記事(「下野新聞」明治32年4月30日)